・・・立っていれば影が差すのが当り前である。そしてその当り前の事が嬉しいのである。 フランツは父が麓の町から始めて小さい沓を買って来て穿かせてくれた時から、ここへ来てハルロオと呼ぶ。呼べばいつでも木精の答えないことはない。 フランツは段々・・・ 森鴎外 「木精」
・・・ 漂う白雲の間を漏れて、木々の梢を今一度漏れて、朝日の光が荒い縞のように泉の畔に差す。 真赤なリボンの幾つかが燃える。 娘の一人が口に銜んでいる丹波酸漿を膨らませて出して、泉の真中に投げた。 凸面をなして、盛り上げたようにな・・・ 森鴎外 「杯」
・・・どこからか差す明りが、丁度波の上を鴎が走るように、床の上に影を落す。 突然さっき自分の這入って来た戸がぎいと鳴ったので、フィンクは溜息を衝いた。外の廊下の鈍い、薄赤い明りで見れば、影のように二三人の人の姿が見える。新しく着いた旅人がこの・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ 私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断然押えつけてしまうつもりで、近ごろある製作に従事した。静かな歓喜がかなり永い間続いた。そのゆえに私は幸福であった。ある日私はかわいい私の作物を抱いてトルストイとストリンドベルヒの前に立った・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・深く胸を刺すというような趣は少ない。無限の深い神秘へ人をいや応なしに引きずり込んで行こうとするような趣も乏しい。彼はかつて老いたる偏盲に嗟嘆させた、「いやしかし俺は自然の美しさに見とれていてはならぬ。いかな時といえども俺はただ俺の考察の対象・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫