・・・の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛の沙門の心へ、懐郷の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須の御名を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。「この国の風景は・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・粥ばかり啜っていさえすれば、得脱するように考えるのは、沙門にあり勝ちの不量見じゃ。世尊さえ成道される時には、牧牛の女難陀婆羅の、乳糜の供養を受けられたではないか? もしあの時空腹のまま、畢波羅樹下に坐っていられたら、第六天の魔王波旬は、三人・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・すると向うから歩いて来たのは鉢を持った一人の沙門である。尼提はこの沙門を見るが早いか、これは大変な人に出会ったと思った。沙門はちょっと見たところでは当り前の人と変りはない。が、その眉間の白毫や青紺色の目を知っているものには確かに祇園精舎にい・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・ ――何しろ沙門の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太刀も帯びて居れば、弓矢も携えて居りました。殊に黒い塗り箙へ、二十あまり征矢をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。 あの男がかようになろうとは、・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・もし悪魔にして、汝ら沙門の思うが如く、極悪兇猛の鬼物ならんか、われら天が下を二つに分って、汝が DS と共に治めんのみ。それ光あれば、必ず暗あり。DS の昼と悪魔の夜と交々この世を統べん事、あるべからずとは云い難し。されどわれら悪魔の族はそ・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・そこに大俗物の九頭竜と、頭の悪い美術好きの成金堂脇左門とが、娘でも連れてはいってくる。花田の弟になり切った俺がおまえといっしょにここにいて愁歎場を見せるという仕組みなんだ。どうだ仙人どももわかったか。花田の弟になる俺は生きて行くが、花田の兄・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・時節柄当局の神経は尖鋭となっていたので、ついにこの不穏の言動をもって、人心を攪乱するところの沙門を、流罪に処するということになった。 これは貞永式目に出家の死罪を禁じてあるので、表は流罪として、実は竜ノ口で斬ろうという計画であった。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 今月の『新小説』の和辻哲郎氏が「入宋求法の沙門道元」に就いて書いて居られるが、あの中の「即ち十丈の竿のさきにのぼって手足を放って身心を放下する如き覚悟がなくては」という気持、あの「人を救うための求道ではない、真理の為めに真理を究める求・・・ 宮本百合子 「女流作家として私は何を求むるか」
・・・野呂栄太郎は、その治安維持法によって殺され、その直接の売りわたし手の査問を担当した事件の裁判に当って、自身もまた同じ悪虐な法律のしめなわにかけられ民衆に対する責任と義務と信頼とを裏切る仕儀に陥った。追憶の文章を流暢に書きすすめるとき、逸見氏・・・ 宮本百合子 「信義について」
出典:青空文庫