・・・ 併し食わなければならぬという事が、人間から好い感興性を奪い去ると同時に悪い感興性の弾力をも奪い取って了うのだ。そして穴のあいたゴム鞠にして了うのだ――「そうだ、感興性を失った芸術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもっと悪い・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・――と言って、自分は先刻の空想が俺を呼ぶのに従ってこのままここを歩み去ることもできない。 早く電燈でも来ればよい。あの窓の磨硝子が黄色い灯を滲ませれば、与えられた生命に満足している人間を部屋のなかに、この通行人の心は想像するかもしれない・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と相映じて蒼々茫々、東は際限なく水天互いに交わり、北は四国の山々手に取るがごとく、さらに日向地は右に伸びてその南端を微漠煙浪のうちに抹し去る、僕は少年心にもこの美しい景色をなが・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・そして背き去ることのできない、見捨てることのできない深い絆にくくられる。そして一つの墓石に名前をつらねる。「夫婦は二世」という古い言葉はその味わいをいったものであろう。 アメリカの映画俳優たちのように、夫婦の離合の常ないのはなるほど自由・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ そして、班長のサル又や襦袢の洗濯をさせられたり、銃の使い方や、機関銃や、野砲の撃ち方を習う。毎朝点呼から消燈時間まで、勤務や演習や教練で休むひまがない。物を考えるひまがない。工場や、農村に残っている同志や親爺には、工場主の賃銀の値下げ・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・ 夫婦揃って子供思いだったので、子供から何か要求されると、どうしてもそれをむげに振去ることが出来なかった。肩掛け、洋傘、手袋、足袋、――足袋も一足や二足では足りない。――下駄、ゴム草履、櫛、等、等。着物以外にもこういう種々なるものが要求・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・何ぞと見るに雉子の雌鳥なれば、あわれ狩する時ならばといいつつそのままやみしが、大路を去る幾何もあらぬところに雉子などの遊べるをもておもえば、土地のさまも測り知るべきなり。 かくてようやく大路に出でたる頃は、さまで道のりをあゆみしにあらね・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 二 万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の連続である。 其実体には固より終始もなく生滅もなき筈である、左れど実体の両面たる物質と勢力とが構成し仮現する千差万別・無量無限の個々の形体に・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・春も尾のある狐欺されたかと疑ぐるについぞこれまで覚えのない口舌法を実施し今あらためてお夏が好いたらしく土地を離れて恋風の福よしからお名ざしなればと口をかけさせオヤと言わせる座敷の数も三日と続けばお夏はサルもの捨てた客でもあるまいと湯漬けかッ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をのみ待っていたものは、一体誰か。 制え難い悔恨の情が起って来た。おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地に宛行ったり、その上から白粉を塗ったりして置いて、それ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
出典:青空文庫