・・・ 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。「もう店しまうべえ」 父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから鳴った。「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ」 日が暮れかけると山は風の音ば・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・先日おいでの折、男子の面目は在武術と説き、諸卿の素直なる御賛同を得たるも、教訓する者みずから率先して実行せざれば、あたら卓説も瓦礫に等しく意味無きものと相成るべく、老生もとより愚昧と雖も教えて責を負わざる無反省の教師にては無之、昨夕、老骨奮・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ 芥川竜之介の小品に次のような例がある。 山道のトロッコにうっかり乗った子供が遠くまではこばれた後に車から降ろされただ一人取り残されて急に心細くなり、夢中になって家路をさしていっさんに駆け出す。泣きだしそうにはなるが一生懸命だから思・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そこから吉浜まで海岸の雨の山道を、験潮器を背負って、苫をかぶってあるいていると、ホトトギスが啼いた。根白というところで煙草を買おうと思ったが、巻莨はおろか刻煙草もない。宿屋の親爺ののみしろを一服めぐんでもらったので、喜んで吸ってみると、それ・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・のみならずもう候補者まで見つけて来て私に賛同を求めるのであった。 しかし牛乳屋が正直にもとの家へ返したところで、まただれか新しい飼い主の手に渡るにしても結局はのら猫になるよりほかの運命は考えられないようなこの猫をみすみす出してしまうのも・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・「小女山道」「昼飯」「牛を追う翁」「みかん」「いこいつつ水の流れをながめおれば、せきれい鳴いて日暮れんとす」など、とり止めもない遠足の途中のいたずら書きらしいものもある。 亮のかいた絵に私が題句をかいたり、亮の句に私が生意気な評のような・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・また重いものをかついで山道を登る夢が情婦とのめんどうな交渉の影像として現われることもある。古来の連句の中でもそういう不思議な場合の例を捜せばおそらくいくらでも見つかるであろうという事は、自分自身の貧弱な体験からも想像されることである。「・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・それは見晴しの好い峠の山道を、ひとりでゆっくり歩きたかったからであった。道は軌道に沿いながら、林の中の不規則な小径を通った。所々に秋草の花が咲き、赫土の肌が光り、伐られた樹木が横たわっていた。私は空に浮んだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・その映画でもやはり人間の努力の姿を語ろうとして同じような山道を攀じ登る姿を繰り返し繰り返し見せた。山の岩石の構造の相違やそこを登攀する技術の相違や雪の質、氷河の性質等に就いてカメラがもっと科学的に活用されていたらばあれだけの長さの内容をもっ・・・ 宮本百合子 「イタリー芸術に在る一つの問題」
・・・ 奥から出て来た主人らしい人が、大鳥居のきわから左へ入って、うねうね山道を歩いてゆけば、ひとりでに公会堂の上へ出るからと教えてくれた。 暖かい十月の六日で、セルで汗ばむ天気であった。弁当の包を片手に下げ、家のわきから左に入ると、男の・・・ 宮本百合子 「琴平」
出典:青空文庫