・・・ これと同じようなことが、山の頂きと谷との間にあって山谷風と名づけられています。これがもういっそう大仕掛けになって、たとえばアジア大陸と太平洋との間に起こるとそれがいわゆる季節風で、われわれが冬期に受ける北西の風と、夏期の南がかった風に・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・自然を庭に取り入れる彼らはまた庭を山野に取り広げるのである。 月見をする。星祭りをする。これも、少し無理な言い方をすれば庭園の自然を宇宙空際にまで拡張せんとするのであると言われないこともないであろう。 日本人口の最大多数の生産的職業・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・今戸の渡と云う名ばかりは流石に床し。山谷堀に上がれば雨はら/\と降り来るも場所柄なれば面白き心地もせらる。さりとて傘持たぬ一同、たとえ張子ならずとも風邪など引いては面白からねば大急ぎにて雷門前まで駈け付く。先を争いて馬車に乗らんとあせる人狂・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・それ故大正改元のころには、山谷の八百善、吉原の兼子、下谷の伊予紋、星ヶ岡の茶寮などいう会席茶屋では食後に果物を出すようなことはなかったが、いつともなく古式を棄てるようになった。 わたくしの若い時分、明治三十年頃にはわれわれはまだ林檎もバ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀は既に埋められ、日本堤は丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪外の道もまた取広げられていたが、一面に石塊が敷いてあって歩くことができなかった。吉原を通りぬけて鷲神社の境内に・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・何故かというと、この渡場は今戸橋の下を流れる山谷堀の川口に近く、岸に上るとすぐ目の前に待乳山の堂宇と樹木が聳えていた故である。しかしこの堂宇は改築されて今では風致に乏しいものとなり、崖の周囲に茂っていた老樹もなくなり、岡の上に立っていた戸田・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・と唱われていたほどであったのが、嘉永三年の頃には既に閉店し、対岸山谷堀の入口なる川口屋お直の店のみなお昔日に変らず繁昌していたことが知られる。 川口屋の女主お直というは吉原の芸妓であったが、酒楼川口屋を開いて後天保七年に隅田堤に楓樹を植・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ お前の轢殺車の道に横わるもの一切、農村は蹂られ、都市は破壊され、山野は裸にむしられ、あらゆる赤ん坊はその下敷きとなって、血を噴き出す。肉は飛び散る。お前はそれ等の血と肉とを、バケット・コンベヤーで、運び上げ、啜り啖い、轢殺車は地響き立・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・第三、地理書 地球の運転、山野河海の区別、世界万国の地名、風俗・人情の異同を知る学問なり。いながら知るべき名所を問わず、己が生れしその国を天地世界と心得るは、足を備えて歩行せざるが如し。ゆえに地理書を学ばざる者は、跛者に異な・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・「アスパラガスやちしゃのようなものが山野に自生するようにならないと産業もほんとうではありませんな。」「へえ。ずいぶんなご卓見です。しかしあなたは紫紺のことはよくごぞんじでしょうな。」 みんなはしいんとなりました。これが今夜の眼目・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
出典:青空文庫