・・・ 翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫紺の御召のコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔広の黒い帽子を目深くかぶって、洋銀の握りのついた・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫紺――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流行る半コオトを幅広に着た、横肥りのした五十恰好。骨組の逞ましい、この・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」「政夫さんはりんどうの様な人だ」「どうして」「さアどうしてとい・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 壁の衣紋竹には、紫紺がかった派手な色の新調の絽の羽織がかかっている。それが明日の晩着て出る羽織だ。そして幸福な帰郷を飾る羽織だ。私はてれ隠しと羨望の念から、起って行って自分の肩にかけてみたりした。「色が少しどうもね。……まるで芸者・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・つかしい夢のようなものであるが、たとえば、深く降り積もった雪の中に一本大きなクリスマス・トリーが立っていてそれに、無数の蝋燭がともり、それが樅の枝々につるしたいろいろの飾りものに映ってきらめいている。紫紺色に寒々とさえた空には星がいっぱいに・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
・・・両側の岸には真黒な森が高く低く連なって、その上に橋をかけたように紫紺色の夜空がかかっていた。夥しい星が白熱した花火のように輝いていた。 やがて森の上から月が上って来た。それがちょうど石鹸球のような虹の色をして、そして驚くような速さで上っ・・・ 寺田寅彦 「夢」
盛岡の産物のなかに、紫紺染というものがあります。 これは、紫紺という桔梗によく似た草の根を、灰で煮出して染めるのです。 南部の紫紺染は、昔は大へん名高いものだったそうですが、明治になってからは、西洋からやすいアニリ・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・メリンスの、雲と菊の模様のある羽織を着、処々色の褪めた紫紺の袴を穿いた自分の様子は、どんな風にその場合見えただろう。鍵の手に曲った廊下を行くと、突当りの一寸左に、弟の教室があった。 そこへ行き、中を覗いて見る。大抵の時は、白い丸い顔をし・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・父のところには、とにかくそういう英語で、しかも絵入りのがあるので、何か欲しいとせがんだら一冊の紫紺色表紙の本を貸してくれました。「古代ギリシア彫刻家」という題で、父が云うには、これはためになる本だし、絵もあり、活字もパラリとしていて、書いた・・・ 宮本百合子 「写真に添えて」
・・・ それでも夏はそれほどひどくは気にならないけれど冬羽織着物、下着、半衿とあんまり違う色を用うのは千世子は好いて居なかった。 紫紺の極く濃いのと茶っぽい色とを好いて居る千世子が夏の外出に、白い帯(に赤味がかった帯をすると気がさす様で仕・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
出典:青空文庫