・・・或日わたくしに向って、何やら仔細らしく、真実子供がないのかと質問するので、わたくしは、出来るはずがないから確にないと答えると、「それはあなたの方で一人でそう思っていられるのじゃないですか。あなた自身も知らないというような落胤があって、世に生・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・『江頭百詠』は詼謔を旨とした『繁昌記』の文とは異って静軒が詩才の清雅なる事を窺知らしむるものである。静軒は花も既に散尽した晩春の静なる日、対岸に啼く鶯の声の水の上を渡ってかすかに聞えてくる事のいかに幽趣あるかを説いて下の如くに言っている。「・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・彼と我と、その思想その詩才においては、いうまでもなく天地雲泥の相違があろう。しかし同じく生れて詩人となるやその滅びたる芸術を回顧する美的感奮の真情に至っては、さして多くの差別があろうとも思われぬ。 否々。自分は彼れレニエエが「われはヴェ・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・と羽団扇がまた動く。「しかし鉄片が磁石に逢うたら?」「はじめて逢うても会釈はなかろ」と拇指の穴を逆に撫でて澄ましている。「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細らしく髯を撚る。「わしは歌麻呂のかいた美人を認識し・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・家君さんは平田に似て、それで柔和で、どこか気抜けがしているようにも見え、自分を見てどこから来たかと言いたそうな顔をしていて、平田から仔細を聞いて、急に喜び出して大層自分を可愛がッてくれる。弟も妹も平田から聞いていた年ごろで、顔つき格向もかね・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・譬ば恋情の切なるものは能く人を殺すといえることを以て意と為したる小説あらんに、其の本尊たる男女のもの共に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの誓文も悉皆鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・鑠くれば灰とわかれてきはやかにかたまり残る白銀の玉銀の玉をあまたに筥に収れ荷緒かためて馬馳らするしろがねの荷負る馬を牽たてて御貢つかふる御世のみさかえ 採鉱溶鉱より運搬に至るまでの光景仔細に写し出して目覩るがごとし。ただに題・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ そして彼特有のずるい商法が行われるのである。 栄蔵は、木なりを見て来た「政」に、年も食って居る事だし、虫もついて居ないのだから、廉く見つもっても七八十円がものはあると云った。 仔細らしくあの枝を見、この枝を見して「政」はこの木・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ぐるりと後に廻ると、開く扉はあったが、司祭控室らしく、第一、下駄で入ってはわるそうだし困って、私は、附属家の手入れをして居たペンキ屋に、掛りの人の居処を聞いて見た。灌木の茂みの間の坂を登り切ったところに、大理石の十字架上の基督像を中心とした・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・ぐるりと裏に廻ると別に入口があり、ここは易々と開いたが、司祭の控室らしく、白い祭服のかかっている衣裳棚などがある。第一、塵もない木の床を下駄で歩いては悪そうだし、困って私は彼方此方を見渡廻した。樟の木蔭に、附属家屋のペンキを剥して、職人が一・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫