・・・ しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。しかし嗄・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・しかし今まで瞑目していた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言った。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑い出した。 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐っていた。が、なぜかゆうべのように少しも涙は流れなかった。僕は殆ど泣・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・黒い上衣を着た医者が死人に近づいてその体の上にかぶさるようになって何やらする。「おしまいだな」とフレンチは思った。そして熱病病みのように光る目をして、あたりを見廻した。「やれやれ。恐ろしい事だった。」「早く電流を。」丸で調子の変った・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 僥倖に、白昼の出水だったから、男女に死人はない。二階家はそのままで、辛うじて凌いだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。 若い時から、諸所を漂泊った果に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階借した小僧の叔母にあたる年寄がある。・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・(門火なんのと、呑気なもので、(酒だと燗だが、こいつは死人焼……がつがつ私が食べるうちに、若い女が、一人、炉端で、うむと胸も裾もあけはだけで起上りました。あなた、その時、火の誘った夜風で、白い小さな人形がむくりと立ったじゃありませんか。ぽん・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・線香を立てて死人扱いをするのがかあいそうでならないけれど、線香を立てないのも無情のように思われて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらという親戚の助言は聞かなかった。まだこの世の人でないとはどうしても思われないから、燈明を上げるだけは今夜の・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 僕は、――たとえば、伊邪那岐の尊となって――死人のにおいがする薄暗い地獄の勝手口まで、女を追っているような気がして、家に帰った。 時計を見ると、もう、十時半だ。しかし、まだ暑いので、褥を取る気にはならない。仰向けに倒れて力抜けがし・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・如何にも死人臭い匂がもう芬と鼻に来る。 飲んだわ飲んだわ! 水は生温かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が繋がれようというもの、それそれ生理心得草に、水さえあらば食物なくとも人は能く一週間以上活くべしと・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・われら急に内に入りて二人を求めしに、二郎は元の席にあり、十蔵はそのそばの椅子に座し、二郎が眼は鋭く光りて顔色は死人かと思わるるばかり蒼白く、十蔵は怪しげなる微笑を口元に帯びてわれらを迎えぬ。あまりの事に人々出す言葉を知らざりき。倶楽部員は二・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・さなきだに蒼ざめて血色悪しき顔の夜目には死人かと怪しまれるばかり。剰え髪は乱れて頬にかかり、頬の肉やや落ちて、身体の健かならぬと心に苦労多きとを示している。自分は音を立てぬようにその枕元を歩いて、長火鉢の上なる豆洋燈を取上げた。 暫時聴・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫