・・・それはこの二年ばかし以来のことだが、彼は持病の気管支と貧乏から、最も恐れている冬が来ると、しばしばこの亡霊に襲われたと言うのだ。彼は家を追われた病犬のように惨めに生きていたというのだ。そして下宿へも帰れずに公園の中をうろついているとか、また・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかをことにしばしば歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るような冷気が径へ通っているところだった。一本の古びた筧がその奥の小暗いな・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・城下より来たりて源叔父の舟頼まんものは海に突出し巌に腰を掛けしことしばしばなり、今は火薬の力もて危うき崖も裂かれたれど。「否、彼とてもいかで初めより独り暮さんや。「妻は美しかりし。名を百合と呼び、大入島の生まれなり。人の噂をなかば偽・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 彼は、これまでに、しばしば危険に身を曝したことを思った。 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸ばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だっ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・正直な若崎はその後しばしば大なるご用命を蒙り、その道における名誉を馳するを得た。 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・また事実において、しばしば矛盾もし、衝突もした。しかし、この矛盾・衝突は、ただ四囲の境遇のためによぎなくせられ、もしくは養成せられたので、その本来の性質ではない。いな、彼らは、完全に一致・合同しうべきもの、させねばならぬものである。動物の群・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ すでに西に帰り、信書しばしば至る。書中雅意掬すべし。往時弁論桿闔の人に似ざるなり。去歳の春、始めて一書を著わし、題して『十九世紀の青年及び教育』という。これを朋友子弟に頒つ。主意は泰西の理学とシナの道徳と並び行なうべからざるの理を述ぶ・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・ 朽助は、乳母車を押しながら、しばしば立ちどまって帯をしめなおす癖があり、山椒魚は、「俺にも相当な考えがあるんだ」とあたかも一つの決心がついたかのごとく呟くが、しかし、何一つとしてうまい考えは無く、谷間の老人は馬に乗って威厳のある演説を・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 美術上の作品についても同様な場合がしばしば起る。例えば文展や帝展でもそんな事があったような気がする。それにつけて私は、ラスキンが「剽窃」の問題について論じてあった事を思い出して、も一度それを読んでみた。その最後の項にはこんな事が書いて・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・私はまた洗練された、しかしどれもこれも単純な味しかもたない料理をしばしば食べた。豪華な昔しの面影を止めた古いこの土地の伝統的な声曲をも聞いた。ちょっと見には美しい女たちの服装などにも目をつけた。 この海岸も、煤煙の都が必然展けてゆかなけ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫