・・・うや、目さめし時は東の窓に映る日影珍しく麗かなり、階下にては母上の声す、続いて聞こゆる声はまさしく二郎が叔母なり、朝とく来たりて何事の相談ぞと耳そばだつれど叔母の日ごろの快活なるに似ず今朝は母もろともしめやかに物語して笑い声さえ雑えざるは、・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳ゆ。風清く気澄めり。 げに初冬の朝なるかな。 田・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・路の半ばに時雨しめやかに降り来たりて間もなく過ぎ去りし後は左右の林の静けさをひとしおに覚え、かれが踏みゆく落ち葉の音のみことごとしく鳴れり。この真直なる路の急に左に折るるところに立ち木やや疎らなる林あり。青年はかねてよくこの林の奥深く分け入・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・く武蔵野名物のから風が吹くことがあってせっかく咲きかけた藤の花を吹きちぎり、ついでに柔らかい銀杏の若葉を吹きむしることがあるが、不連続線の狂風が雨を呼んで干からびたむせっぽい風が収まると共に、穏やかにしめやかな雨がおとずれて来ると花も若葉も・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・これは男子には関係のないだけに、街頭は街頭でも、何となくしめやかにしとやかに行われている。それだけに救世軍の鍋などとはよほどちがった感じを傍観者に与えるものである。如何にも兵隊さんの細君らしい人などが赤ん坊を負ぶっているのに針を通してやって・・・ 寺田寅彦 「千人針」
・・・ただその声があまりに強く鋭く狭い会堂に響き渡って、われわれ日本人の頭にある葬式というものの概念に付随したしめやかな情調とはあまりにかけ離れたもののような気がしたのであった。 遺骸は町屋の火葬場で火葬に付して、その翌朝T老教授とN教授と自・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・男は表の座敷、女どうしは奥の一間へ集まって、しめやかに話している。母上はねえさんと押し入れから子供の着物など引きちらして何か相談している。新聞を広げた上に居眠りを始めている人もある。酒のにおいのこもった重くるしいうっとうしい空気が家の中に満・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中の空想から消去って、夜晩く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹をゆする響に、伝通院の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵にあ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・あの花びらは天の山羊の乳よりしめやかです。あのかおりは覚者たちの尊い偈を人に送ります。」「それはみんな善です。」「誰の善ですか。」諒安はも一度その美しい黄金の高原とけわしい山谷の刻みの中のマグノリアとを見ながらたずねました。「覚・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・そこを立って来た夜半に、計らず聴いた雨の音故一きわすがすがしく、しめやかに感じたということもあろう。鳥栖で、午前六時、長崎線に乗換る時には、歩廊を歩いている横顔にしぶきを受ける程の霧雨であった。車室は、極めて空いている。一体、九州も、東海岸・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫