・・・意外にも甚だ悄然とした、罪を謝する言葉である。「あたら御役に立つ侍を一人、刀の錆に致したのは三右衛門の罪でございまする。」 治修はちょっと眉をひそめた。が、目は不相変厳かに三右衛門の顔に注がれている。三右衛門はさらに言葉を続けた。・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
ある曇った初夏の朝、堀川保吉は悄然とプラットフォオムの石段を登って行った。と云っても格別大したことではない。彼はただズボンのポケットの底に六十何銭しか金のないことを不愉快に思っていたのである。 当時の堀川保吉はいつも金・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・輪廓は、生前と少しもちがわない。が、どこかようすがちがう。脣の色が黒んでいたり、顔色が変わっていたりする以外に、どこかちがっているところがある。僕はその前で、ほとんど無感動に礼をした。「これは先生じゃない」そんな気が、強くした。僕は、柩の前・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・ 遠くで稲妻のする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然と腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。 ――――――――――――――――――――――――― 修理は、翌日、宇左衛門から、佐渡・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・……まずは生前のご挨拶まで」 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思い、なんとかいう発句を書いたりした。今はもう発句は覚えていない。しかし「喉頭結核でも絶望するには当たらぬ」などという気休めを並べたことだけはいまだにはっきりと覚・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・私は悚然として再びこの沼地の画を凝視した。そうして再びこの小さなカンヴァスの中に、恐しい焦躁と不安とに虐まれている傷しい芸術家の姿を見出した。「もっとも画が思うように描けないと云うので、気が違ったらしいですがね。その点だけはまあ買えば買・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・ 埃風の吹く往来には、黒い鍔広の帽子をかぶって、縞の荒い半オオヴァの襟を立てた田中君が、洋銀の握りのある細い杖をかいこみながら、孤影悄然として立っている。田中君の想像には、さっきからこの町のはずれにある、格子戸造の家が浮んでいた。軒に松・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・しかし妻は悄然と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬しさに身悶えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・悪魔また性善なり。断じて一切諸悪の根本にあらず。 ああ、汝、提宇子、すでに悪魔の何たるを知らず、況やまた、天地作者の方寸をや。蔓頭の葛藤、截断し去る。咄。 芥川竜之介 「るしへる」
・・・ 同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然とした。 靴が左から……ト一ツ留って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。 ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
出典:青空文庫