・・・ 沈鬱な心境を辿りながら、彼は飯田町六丁目の家の方へ帰って行った。途々友達のことが胸に浮ぶ。確に老けた。朝に晩に逢う人は、あたかも住慣れた町を眺めるように、近過ぎて反って何の新しい感想も起らないが、稀に面を合せた友達を見ると、実に、驚く・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・時評に依ると、お前の心境いよいよ澄み渡ったそうだね、あはは。家庭の幸福か。妻子のあるのは、お前ばかりじゃありませんよ。 図々しいねえ。此頃めっきり色が白くなったじゃないか。万葉を読んでいるんだってね。読者を、あんまり、だまさないで下さい・・・ 太宰治 「或る忠告」
・・・この小品の原作者は、この作品を書く時、特別に悪い心境に在ったのでは無いかと、頗る失礼な疑惑をさえ感じたのであります。悪い心境ということについては二つの仮説を設けることが出来ます。一つは原作者がこの小説を書くとき、たいへん疲れて居られたのでは・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私のこせこせした心境を軽蔑しているようにも見える。「きょうは、でも、小坂さんの家へ行くんだろう?」「うむ、行って見ようか。」 行って見ようかも無いもんだ。御自分の嫁さんと逢うんじゃないか。「なかなかの美人のようだぜ。」私は、・・・ 太宰治 「佳日」
・・・感傷の在りかたが、諦念に到達する過程が、心境の動きが、あきらかに公式化せられています。かならずお手本があるのです。誰しもはじめは、お手本に拠って習練を積むのですが、一個の創作家たるものが、いつまでもお手本の匂いから脱する事が出来ぬというのは・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・、山岸外史の愛情、順々にお知らせしようつもりでございましたが、私の話の長びくほど、後に控えた深刻力作氏のお邪魔になるだけのことゆえ、どこで切っても関わぬ物語、かりに喝采と標題をうって、ひとり、おのれの心境をいたわること、以上の如くでございま・・・ 太宰治 「喝采」
・・・教場の光景も初めと終わりに現われそれが皆それぞれ全く変わった主人公の心境の背景として現われるのである。同じ女の絵はがきでも初めは生徒の手から没収したのを後には自分でお客に売り歩くことになっている。要するにこの映画ではこういうものがあまり錯雑・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 三 「心境の変化」という言葉が近頃一時流行った。「気が変った」というのと大した変りはないが新しい言葉には現代の気分があると見える。「私の心境が変化した」というのは客観的な云い方であり、自分の心を一つの現象と・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・のタを消してトに訂正してあったりするのをしみじみ見ていると、当時における八雲氏の家庭生活とか日常の心境とかいうものの一面がありありと想像されるような気がしてくるのである。おそらく夕飯後の静かな時間などに夫人を相手にいろいろのことを質問したり・・・ 寺田寅彦 「小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」」
・・・「心境の変化」で左翼が右翼にまた右翼が左翼に「転向」するのも、畢竟は思想のニコルが直角だけ回ったようなものかもしれない。使徒ポールの改宗なども同様な例であろう。耶蘇の幽霊に会ってニコルが回ったのである。しかしどちらへ曲げても結局偏光は偏光で・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
出典:青空文庫