・・・ところがその半月ばかりが過ぎてから、私はまた偶然にもある予想外な事件に出合ったので、とうとう前約を果し旁、彼と差向いになる機会を利用して、直接彼に私の心労を打ち明けようと思い立ったのです。「と云うのはある日の事、私はやはり友人のドクトル・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層皺を増している。――林右衛門の企ては、彼も快くは思っていない。が、何と云っても相手は本家からの附人である。「縛り首は穏便でございますまい。武士らしく切腹でも申しつけまするならば、格別でございま・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・正面の新郎や新婦をはじめ、白い凹字形のテエブルに就いた五十人あまりの人びとは勿論いずれも陽気だった。が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂鬱になるばかりだった。僕はこの心もちを遁れる為に隣にいた客に話しかけた。彼は丁度獅子のように白・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告――私は隧道へはいった一瞬間、汽車の走っている方向が逆になったような錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、あたかも卑俗な現実を人間にしたよう・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・田園生活などいうても、百姓の辛労を見物ものにして、百姓の作ったものをぶらぶら遊んで見ていたって、そりゃ本当の田園趣味でない。なるほどおれも百姓になろう。百姓は骨が折れるからとばかり思って、とかく本気に百姓しようと思わなかったけれど、考えると・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ ところが、嫁ぎ先の寺田屋へ着いてみると姑のお定はなにか思ってかきゅうに頭痛を触れて、祝言の席へも顔を見せない、お定は寺田屋の後妻で新郎の伊助には継母だ。けれども、よしんば生さぬ仲にせよ、男親がすでに故人である以上、誰よりもまずこの席に・・・ 織田作之助 「螢」
・・・彼が近い身の辺にあった見せかけの生活から――甲斐も無い反抗と心労とから――その他あらゆるものから遁れて来た自分の身を考えた。もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることは無いか。そのために、彼は他にもあった教師の口を断り、すこし土でも掘って見よ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ けれども、誰が心労を忘れることが出来ましょう? 夜も昼も、スバーの両親の心は彼女の為に痛んでいるのでした。 わけても、母親は彼女を、まるで自分の不具のように思って見ました。母にとって、娘と云うものは、息子よりずっと自分に親しい一部・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・と北京の新郎は大きく出た。「どてらに着換えたら?」「うむ、拝借しよう。」新郎はネクタイをほどきながら、「ついでに君、新しいパンツが無いか。」いつのまにやら豪放な風格をさえ習得していた。ちっとも悪びれずに言うその態度は、かえって男らし・・・ 太宰治 「佳日」
一 祝言の夜ふけ、新郎と新婦が将来のことを語り合っていたら、部屋の襖のそとでさらさら音がした。ぎょっとして、それから二人こわごわ這い出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台に飾られてある伊勢海老が、ま・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫