・・・天性からも、また隠遁的な学者としての生活からも、元来イーゴイストである彼の小自我は、その上におおっている青白い病のヴェールを通して世界を見ていた。 もっとも彼がこう思ったのはもう一つの理由があった。大学の二年から三年に移った夏休みに、呼・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・それでとうとう自画像でも始めねばならないようになって来た。いったい自分はどういうものか、従来肖像画というものにはあまり興味を感じないし、ことに人の自画像などには一種の原因不明な反感のようなものさえもっているのであるが、それにもかかわらずつい・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・静物ないし自画像などは寒い時のために保留するというような気もあって、暖かいうちはなるべく題材を戸外に求める事に自然となってしまった。もっとも戸外と言ってもただ庭をあちらから見たりこちらから見たり、あるいは二階か近所の屋根や木のこずえを見たと・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・その場合に、もし研究者の自我がその心眼の明を曇らせるようなことがあると、とんでもない失敗をする恐れがある。そうでない結果をそうだと見誤ったり、あるいは期待した点はそのとおりであっても、それだけでなくほかにいろいろもっと重大な事実が眼前に歴然・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・それからもう一つ、描きかけの自画像で八号か十号くらいだったかと思う。一体に青味の勝った暗い絵で、顔が画面一杯に大きくかいてあった。同行の中村先生があとでレンブラント張りだと評された事も覚えている。 その時までに見た中村氏の絵を頭において・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・鈴木三重吉君自画の横顔の影法師が壁にはってあったこともある。だれかからもらったキュラソーのびんの形と色を愛しながら、これは杉の葉のにおいをつけた酒だよと言って飲まされたことを思い出すのである。草色の羊羹が好きであり、レストーランへいっしょに・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る範囲内では、外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理屈が生まれたり教訓が組み立てられたりする。万葉の短歌や蕉門の俳句に・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ 風雅は自我を去ることによって得らるる心の自由であり、万象の正しい認識であるということから、和歌で理想とした典雅幽玄、俳諧の魂とされたさびしおりというものがおのずから生まれて来るのである。幽玄でなく、さびしおりのないということは、露骨で・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・自由はわがままや自我の押し売りとはちがう。自然と人間の方則に服従しつつ自然と人間を支配してこそほんとうの自由が得られるであろう。 暑さがなければ涼しさはない。窮屈な羈絆の暑さのない所には自由の涼しさもあるはずはない。一日汗水たらして働い・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・ そのくせ周囲の空気には名状すべからざる派出な刺激があって、一方からいうと前後を忘れ、自我を没して、この派出な刺激を痛切に味いたいのだから困ります。その意味からいうと、美々しい女や華奢な男が、天地神明を忘れて、当面の春色に酔って、優越な・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
出典:青空文庫