赤沢 雑木の暗い林を出ると案内者がここが赤沢ですと言った。暑さと疲れとで目のくらみかかった自分は今まで下ばかり見て歩いていた。じめじめした苔の間に鷺草のような小さな紫の花がさいていたのは知っている。熊笹の折・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・また実際そのお島婆さんの家と云うのが、見たばかりでも気が滅入りそうな、庇の低い平家建で、この頃の天気に色の出た雨落ちの石の青苔からも、菌ぐらいは生えるかと思うぐらい、妙にじめじめしていました。その上隣の荒物屋との境にある、一抱あまりの葉柳が・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 墓は皆暗かった、土地は高いのに、じめじめと、落葉も払わず、苔は萍のようであった。 ふと、生垣を覗いた明い綺麗な色がある。外の春日が、麗かに垣の破目へ映って、娘が覗くように、千代紙で招くのは、菜の花に交る紫雲英である。…… 少年・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・「白粉や香水も売っていて、鑵詰だの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。」「全くだ、陰気な内だ。」 と言って客は考えた。「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけど・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・そのときすでに、じめじめした梅雨が過ぎて、空は、まぶしく輝いていたのであります。 小川未明 「海ぼたる」
・・・ 蝸牛を掌にのせ、腕を這わせ、肩から胸へ、じめじめとした感触を愉しんだ。 また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふきでている裸にざあッと水が降りかかって、ピチピチと弾みきった肢態が妖しく顫えながら、すくッと立った。官能がうずくのだ・・・ 織田作之助 「雨」
今もそのアパートはあるだろうか、濡雑巾のようにごちゃごちゃした場末の一角に、それはまるで古綿を千切って捨てたも同然の薄汚れた姿を無気力に曝していた。そのあたりは埋立地のせいか年中じめじめした湿気が去らなかった。日の射さぬ中・・・ 織田作之助 「道」
・・・しかしその谷に当ったところには陰気なじめじめした家が、普通の通行人のための路ではないような隘路をかくして、朽ちてゆくばかりの存在を続けているのだった。 石田はその路を通ってゆくとき、誰かに咎められはしないかというようなうしろめたさを感じ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 二 この日は近ごろ珍しいいい天気であったが、次の日は梅雨前のこととて、朝から空模様怪しく、午後はじめじめ降りだした。普通の人ならせっかくの日曜をめちゃめちゃにしてしまったと不平を並べるところだが、時田先生、全く・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・落葉が厚く積っていて、じめじめぬかった。かまわず、ずんずん進んだ。急な勾配は這ってのぼった。死ぬことにも努力が要る。ふたり坐れるほどの草原を、やっと捜し当てた。そこには、すこし日が当って、泉もあった。「ここにしよう。」疲れていた。 ・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫