・・・ かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀たる細雨は、濃かに糺の森を罩めて、糺の森はわが家を遶りて、わが家の寂然たる十二畳は、われを封じて、余は幾重ともなく寒いものに取り囲まれていた。 春寒の社頭に鶴を夢みけり・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・それでも餌壺だけは寂然として静かである。重いものである。餌壺の直径は一寸五分ほどだと思う。 自分はそっと書斎へ帰って淋しくペンを紙の上に走らしていた。縁側では文鳥がちちと鳴く。折々は千代千代とも鳴く。外では木枯が吹いていた。 夕方に・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・鳥も鳴かぬ風も渡らぬ。寂然として太古の昔を至る所に描き出しているが、樹の高からぬのと秋の日の射透すので、さほど静かな割合に怖しい感じが少ない。その秋の日は極めて明かな日である。真上から林を照らす光線が、かの丸い黄な無数の葉を一度に洗って、林・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・霜の朝、雪の夕、雨の日、風の夜を何べんとなく鳴らした鐘は今いずこへ行ったものやら、余が頭をあげて蔦に古りたる櫓を見上げたときは寂然としてすでに百年の響を収めている。 また少し行くと右手に逆賊門がある。門の上には聖タマス塔が聳えている。逆・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ その親にたのまれて一二回作品を見てやったというだけの若年の娘にも、先生はお目にかかるかぎり懇切丁寧で、ふさわしい親切をもって対して下すっていた。しかしながら、その豊富な経験のなかでは、自身創立された文芸協会で、抱月と松井須磨子の二つの・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・空をとぶ大きな鳥のたのしそうに悠々とした円舞を見あげて、あんな風にして自分たちも自由に空をとんでみたいとあこがれる人類の感情を、ギリシア人が、若々しい人類の歴史の若年期を生きつつ、自分たちの社会の伝説にとりいれたことはいかにも面白い。同時に・・・ 宮本百合子 「なぜ、それはそうであったか」
・・・フランス全国の同業者等は、この唐突に現れた資本も少ない若年の一出版業者が、疑なく時流に投じるであろう出版計画をもっていることを見極めると、共通な悪計によって結束した。一万フランの資本をかけて出版した本の売上げが、一年にやっと二十部という目に・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・地位としては大した役人ではなかった様子であるが、この中條政恒という人の畢生の希望と事業とは、所謂開発のこと、即ち開墾事業で、まだ藩があった頃、北海道開発の案を藩に建議したところ若年の身で分に過ぎたる考えとして叱られた。その北海道へ手をつけて・・・ 宮本百合子 「明治のランプ」
・・・しかしそちも言うとおり、弱年の者じゃから、何かひとかどの奉公をいたしたら、それをしおに助命いたしてつかわそう」「はっ」と言って源太夫はしばらく畳に顔を押し当てていた。ややあって涙ぐんだ目をあげて家康を見て、「甚五郎めにいたさせまする御奉・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・ 本多佐渡守は三河の徳川家の譜代の臣であるが、家康若年のころの野呂一揆に味方し、一揆が鎮圧したとき、徳川家を逐電して、一向一揆の本場の加賀へ行ってしまった。そうしてそこで十八年働いた後に、四十五歳の時、本能寺の変に際して家康のもとに帰参・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫