・・・六 第二の破産状態に陥って、一日一日と惨めな空足掻きを続けていた惣治が、どう言って説きつけたものか、叔父から千円ばかしの価額の掛物類を借りだしたから、上京して処分してくれという手紙のあったのはもう十月も中旬過ぎであった。ちょ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・それで正月上京なさる津枝さんにおまえを見舞っていただくことにした。そのつもりでいなさい。 帰らないと言うから春着を送りました。今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢の間に着るものです。じかに着てはいけません。―― 津枝と・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・「どういう理由で急に上京したのだろう?」「そんな理由は手紙に書いてなかったが、大概想像が着くじゃアないか」と村長は微笑を帯びて細川の顔をじろじろ見ながら言った。彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破ていたのである。「・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 明治二十七年の春、桂は計画どおりに上京し、東京から二三度手紙を寄こしたけれど、いつも無事を知らすばかりでべつに着京後の様子を告げない。また故郷の者誰もどうして正作が暮らしているか知らない、父母すら知らない、ただ何人も疑がわないことが一・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 私の知ってるある文筆夫人に、女学校へも行かなかった人だが、事情あって娘のとき郷里を脱け出て上京し、職業婦人になって、ある新聞記者と結婚し、子どもを育て、夫を助けて、かなり高い社会的地位まで上らせ、自分も独学して、有名な文筆夫人になって・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・あるいは寛喜、貞永とつづいて飢饉が起こって百姓途上にたおれ、大風洪水が鎌倉地方に起こって人畜を損じ、奥州には隕石が雨のごとく落ち、美濃には盛夏に大雪降り、あるいは鎌倉の殿中に怪鳥集まるといった状況であった。日蓮は世相のただならぬことを感じた・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・たまに上京したとき岩波君がせめて東京見物させようと思っても、用事がすむとさっさと帰郷してしまった。息子を勉強させたいばかりに働いていたのだ。そして岩波君が志操ある書店主として立派に成功したとき、孝養を思っても母はもう世を去っていた。 ガ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・傷は、武器と戦闘の状況によって異るのだ。鉄砂の破片が、顔一面に、そばかすのように填りこんだ者は爆弾戦にやられたのだ。挫折や、打撲傷は、顛覆された列車と共に起ったものだ。 負傷者は、肉体にむすびつけられた不自由と苦痛にそれほど強い憤激を持・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・それでもおしかは十月の初めに清三が健康を恢復して上京するのを見送ると、自分が助かったような思いでほっとした。もう来年の三月まで待てばいいのである。負債も何も清三が仕末をしてくれる。…… 為吉が六十で、おしかは五十四だった。両人は多年の労・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・場の小役人みたようなことをしたり、いろいろ困苦勤勉の雛型その物の如き月日を送りながらに、自分の勉強をすること幾年であった結果、学問も段進んで来るし人にも段認められて来たので、いくらか手蔓も出来て、終に上京して、やはり立志篇的の苦辛の日を重ね・・・ 幸田露伴 「観画談」
出典:青空文庫