・・・物に拘泥しない、思索ということをしない、純血な人間に出来るだけの受用をする。いつも何か事あれかしと、居合腰をしているのである。 それだから金のいること夥だしい。定額では所詮足らない。尼寺のおばさん達が、表面に口小言を言って、内心に驚歎し・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・一方にはきわめて消極的な涙もろい意気地ない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強く横たわった。 疼痛は波のように押し寄せては引き、引いては押し寄せる。押し寄せるたびに脣を噛み、歯をくいしばり、脚を両・・・ 田山花袋 「一兵卒」
一 この間日本へ立寄ったバートランド・ラッセルが、「今世界中で一番えらい人間はアインシュタインとレニンだ」というような意味の事を誰かに話したそうである。この「えらい」というのがどういう意味のえらいのであるかが聞きたいのであったが・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・彼のような幸福な人間では、けっしてなかった。 私はその温泉場で長いあいだ世話になっていた人たちのことを想い起こした。「おきぬさんも、今ならどんなにでもして、あげるよって芳ちゃんにそう言うてあげておくれやすと、そないに言うてやった。一・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・この小さな日本を六十幾つに劃って、ちょっと隣へ往くにも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限があり、法度でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人であった時代を想像して御・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 働いてえらい人間にならねばならない。日本ばかりでなく、外国へいってもえらい人間にならねばならないと思った。 それからはこんにゃく桶をかついでいても、以前のようにひどく恥ずかしい気がしなくなった。―― 小学校を卒業してから、林は・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・凡ソ人間ノ快楽ヤ浴酔睡ノ三字ニ如クハ無シ。一楼ニシテ三快ヲ鬻グ者ハ亦新繁昌中ノ一洗旧湯ナリ。」と言っている。 小説家春の家おぼろの当世書生気質第十四回には明治十八九年頃の大学生が矢場女を携えて、本郷駒込の草津温泉に浴せんとする時の光景が・・・ 永井荷風 「上野」
・・・中味を棄てて輪廓だけを畳み込むのは、天保銭を脊負う代りに紙幣を懐にすると同じく小さな人間として軽便だからである。 この意味においてイズムは会社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の学年成績に匹敵すべきものである。僅一行の数字の裏面・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・ただ上人が在世の時自ら愚禿と称しこの二字に重きを置かれたという話から、余の知る所を以て推すと、愚禿の二字は能く上人の為人を表すと共に、真宗の教義を標榜し、兼て宗教その者の本質を示すものではなかろうか。人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあ・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・ ニイチェの著書は、おそらく人間の書いた書物の中で、最も深遠で、且つ最も難解なものの一つであらう。その深遠な理由は、思想が人間性の苦悩の底へ、無限に深くもぐりこんで抜けないほどに根を持つて居るのと、多岐多様の複雑した命題が、至るとこ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫