・・・殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡げる事さえ出来なかった。 その翌日、甚太夫・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・すると長老は僕の容子にこういう気もちを感じたとみえ、僕らに椅子を薦める前に半ば気の毒そうに説明しました。「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずにください。我々の神、――『生命の樹』の教えは『旺盛に生きよ』というのですから。……ラッ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・あるいはそれでも知らぬ顔をすると、今度は外国語の授業料の代りに信仰を売ることを勧めるのである。殊に少年や少女などに画本や玩具を与える傍ら、ひそかに彼等の魂を天国へ誘拐しようとするのは当然犯罪と呼ばれなければならぬ。保吉の隣りにいる少女も、―・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・などと呼ばれていたのも、完くこの忠諫を進める所から来た渾名である。 林右衛門は、修理の逆上が眼に見えて、進み出して以来、夜の目も寝ないくらい、主家のために、心を煩わした。――既に病気が本復した以上、修理は近日中に病緩の御礼として、登城し・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・保吉はそう信じていたから、この場合も退屈し切ったまま、訳読を進めるより仕かたなかった。 しかし生徒の訳読に一応耳を傾けた上、綿密に誤を直したりするのは退屈しない時でさえ、かなり保吉には面倒だった。彼は一時間の授業時間を三十分ばかり過した・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・湯治を勧める。あるいは商売附合いの宴会へも父親の名代を勤めさせる――と云った具合に骨を折って、無理にも新蔵の浮かない気分を引き立てようとし始めました。そこでその日も母親が、本所界隈の小売店を見廻らせると云うのは口実で、実は気晴らしに遊んで来・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は素跣のまま仁右衛門の背に罵詈を浴せながら怒精のようについて来た。そして小屋の前に立ちはだかって、囀るように半ば夢中で仁右衛門夫婦を罵りつづけた。 ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・両親兄弟が同意でなんでお前に不為を勧めるか。先度は親の不注意もあったと思えばこそ、ぜひ斎藤へはやりたいのだ。どこから見たって不足を言う点がないではないか、生若いものであると料簡の見留めもつきにくいが斎藤ならばもう安心なものだ。どうしても承知・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・こう、僕が所在なさに勧めると、「もう、すんだの」と、吉弥はにッこりした。「おッ母さんは?」「赤坂へ行って、いないの」「いつ帰りました?」「きのう」「僕の革鞄を持って来てくれたか、ね?」これはわざと聴いたのだ。「あ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・我等に、生甲斐を感じさせ、悦楽と向上の念とを与え、力強く生活の一歩を進めるものであったなら、芸術として、詩として、それは絶対のものでなければならぬ。 況んや、今日の生活は、目的への手段でもなければ、未来への段階と解すべき筈のものでもない・・・ 小川未明 「単純化は唯一の武器だ」
出典:青空文庫