・・・すると、あの見知らぬ競馬の男への嫉妬がすっと頭をかすめるのだった。 第九の四歳馬特別競走では、1のホワイトステーツ号が大きく出遅れて勝負を投げてしまったが、次の新抽優勝競走では寺田の買ったラッキーカップ号が二着馬を三馬身引離して、五番人・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・あっとしかめた私の顔を、マダムはニイッと見ていたが、やがてチャックをすっと胸までおろすと、私の手を無理矢理その中へ押し込もうとした。円い感触にどきんとして、驚いて汗ばんだ手を引き込めようとしたが、マダムは離さずぎゅっと押えていたが、何思った・・・ 織田作之助 「世相」
・・・あらかじめ考えて置いたのだろう、迷わずにすっと連れて行って下すったのは、冬の夜に適わしい道頓堀のかき舟で、酢がきやお雑炊や、フライまでいただいた。ときどき波が来て私たちの坐っている床がちょっと揺れたり、川に映っている対岸の灯が湯気曇りした硝・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 浪子夫人はすっと空気草履を穿いたまま飛び乗って、そろりそろりと揺がし始めた。しんなりした撫肩の、小柄なきゃしゃな身体を斜にひねるようにして、舞踊か何かででも鍛えあげたようなキリリとした恰好して、だんだん強く強く揺り動かして行った。おお・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・ 障子がすっと開いたかと思うと、年若い姿が腰から上を現わして、「誰た?」「私。」「オヤ、田川さん。」「少し用事が有て来たのよ、最早お寝?」「オヤそう、お上がんなさいよ、でも未だ十時が打たないでしょう。」「晩く来て・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・ 北の八番の唐紙をすっとあけると中に二人。一人は主人の大森亀之助。一人は正午前から来ている客である。大森は机に向かって電報用紙に万年筆で電文をしたためているところ、客は上着を脱いでチョッキ一つになり、しきりに書類を調べているところ、煙草・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・後年、網元の嘉平と利吉は、落ちぶれて死んじゃったが、その時は気持がよくって胸がすっとした。 鰯網が出ない時には、牛飼いをやった。又牛の草を苅りに出た。が、なか/\草は苅らずに、遊んだり角力を取ったりした。コロ/\と遊ぶんが好きで、見つけ・・・ 黒島伝治 「自伝」
・・・ 帰りには、彼は、何か重荷を下したようで胸がすっとした。 息子は、びっくりして十一時の夜汽車であわてゝ帰って来た。 三日たって、県立中学に合格したという通知が来たが、入学させなかった。 息子は、今、醤油屋の小僧にやら・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・それでも、兄は誇の高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、すっとはいって、コーヒー一ぱい飲んで、すっと帰るということばかり続けて居りました。或る晩、私とふたりで、その喫茶店へ行き・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・たしか、その頃のことと記憶しているが、井伏さんが銀座からの帰りに荻窪のおでんやに立寄り、お酒を呑んで、それから、すっと外へ出て、いきなり声を挙げて泣かれたことがあった。ずいぶん泣いた。途中で眼鏡をはずしてお泣きになった。私も四十歳近くなって・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫