一 前島林右衛門 板倉修理は、病後の疲労が稍恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。―― 肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。廊下を通る人の足音とか、家中の者の話声と・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・いきなり切符を車掌へ渡すと、仕事を仕損じた掏摸より早く、電車を飛び降りてしまいました。が、何しろ凄まじい速力で、進行していた電車ですから、足が地についたと思うと、麦藁帽子が飛ぶ。下駄の鼻緒が切れる。その上俯向きに前へ倒れて、膝頭を摺剥くと云・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこ・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
彼は小説家だった。下手な小説家だった。その証拠に実感を尊重しすぎた。 彼は掏摸の小説を構想した。が、どうも不安なので、掏摸の顔を見たさに、町へ出た。 ところが、一人も掏摸らしい男に出会わなかった。すごすご帰りの電車・・・ 織田作之助 「経験派」
・・・ 焼けた大阪劇場も内部を修理して、もう元通りの映画とレヴュが掛っていた。常盤座ももう焼けた小屋とは見えず、元の姿にかえって吉本の興行が掛っていた。 その常盤座の前まで、正月の千日前らしい雑閙に押されて来ると、またもや呼び停められた。・・・ 織田作之助 「神経」
・・・ しかし、ヒンブルの加代は掏摸はやらない。不器用で掏摸には向かないのだ。 彼女の専門は、映画館やレヴュー小屋へ出入するおとなしそうな女学生や中学生をつかまえて、ゆする一手だ。 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 自分が百円持って銀行に預けに行く途中で、掏児に取られた体にして届け出よう、そう為ようと考がえた、すると嫌疑が自分にかかり、自分は拘引される、お政と助は拘引中に病死するなど又々浅ましい方に空想が移つる。 校舎落成のこと、その落成式の・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・呉は、そのしてはならぬことを、かげにかくれて反対にやってみせる、それに快よさを覚えるようなたちの男だ。掏摸が一度、豪勢な身なりをしている男の懐中物をくすねて鼻をあかしてやると、その快味が忘れられず、何回もそれを繰りかえし、かっぱらう。そして・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・二年兵の食器洗い、練兵、被服の修理、学科、等々、あとからあとへいろ/\なことが追っかけて来るのでうんざりする。腹がへる。 軍隊特有な新しい言葉を覚えた。からさせ、──云わなくても分っているというような意。まんさす、──二年兵・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・それが全警備区に配分されて、配給や救護や、道路、橋の修理などにも全力を上げてはたらいたのです。軍用鳩も方々へお使いをしました。 同時に海軍では聯合艦隊以下、多くの艦船を派出して、関西地方からどんどん食料や衛生材料なぞを運び、ひなん者の輸・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
出典:青空文庫