・・・眼を瞑ったようなつもりで生活というものの中へ深入りしていく気持は、時としてちょうど痒い腫物を自分でメスを執って切開するような快感を伴うこともあった。また時として登りかけた坂から、腰に縄をつけられて後ざまに引き下されるようにも思われた。そうし・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・おそらく今日の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。 看護婦はまた謂えり。「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすとは違いますよ」 夫人はここにおいてぱっちりと眼をけり・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・化膿せる腫物を切開した後の痛快は、やや自分の今に近い。打撃はもとより深酷であるが、きびきびと問題を解決して、総ての懊悩を一掃した快味である。わが家の水上僅かに屋根ばかり現われおる状を見て、いささかも痛恨の念の湧かないのは、その快味がしばらく・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・まりは、石塊の上をころげたり、土の上を走ったりしました。そして、体じゅうに無数の傷ができていました。 どうかして、子供らの手から、のがれたいものだと思いましたけれども、それは、かなわない望みでありました。夜になると、体じゅうが痛んで、ど・・・ 小川未明 「あるまりの一生」
・・・ 紳士は、めったに人の通らない、青田の中の細道を歩いて、右を見たり、左を見たりしながら、ときどき、立ち止まっては、くつの先で石塊を転がしたりしていました。「どこの人だろう? あんな人はこの村にいないはずだが。」と、信吉は、その人のす・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・崖の中腹には、小使の音吉が弟を連れて来て、道をつくるやら石塊を片附けるやらしていた。音吉は根が百姓で、小使をするかたわら小作を作るほどの男だ。その弟も屈強な若い百姓だ。 兄弟の働いている側で先生方は町の人達にも逢った。人々の話は鉱泉の性・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ いいとしをして、それでも淋しさに、昼ごろ、ふらと外へ出て、さて何のあても無し、路の石塊を一つ蹴ってころころ転がし、また歩いていって、そいつをそっと蹴ってころころ転がし、ふと気がつくと、二、三丁ひとつの石塊を蹴っては追って、追いついては・・・ 太宰治 「鴎」
・・・私は切開した腹部のいたみで、一寸もうごけなかった。そのうちに私は肺をわるくした。意識不明の日がつづいた。医者は責任を持てないと、言っていたと、あとで女房が教えて呉れた。まる一月その外科の病院に寝たきりで、頭をもたげることさえようようであった・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・ 新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊がのろのろ這って歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな。ただそう思うていた。しかし、その石塊は彼のまえを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引摺っているのだということが直ぐに判った。 子供に・・・ 太宰治 「葉」
・・・蠅がワンと飛ぶ。石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫