・・・て峠向うの水に随いてどこまでも下れば、その川は東京の中を流れている墨田川という川になる川だから自然と東京へ行ってしまうということを聞きかじっていたので、何でも彼嶺さえ越せばと思って、前の月のある朝酷く折檻されたあげくに、ただ一人思い切って上・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・シロオテは屋敷の奴婢、長助はる夫婦に法を授けたというわけで、たいへんいじめられた。シロオテは折檻されながらも、日夜、長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。 それから間もなく牢死した。下策・・・ 太宰治 「地球図」
・・・弁慶、情けの折檻である。私は意を決して、友人の頬をなるべく痛くないように、そうしてなるべく大きい音がするように、ぴしゃん、ぴしゃんと二つ殴って、「君、しっかりし給え。いつもの君は、こんな工合いでないじゃないか。今夜に限って、どうしたのだ・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・父は涙をふるってこの盗癖のある子を折檻した。こぶしでつづけさまに三つほど三郎の頭を殴り、それから言った。これ以上の折檻は、お前のためにもわしのためにもいたずらに空腹を覚えさせるだけのことだ。それゆえ折檻はこれだけにしてやめる。そこへ坐れ。三・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 頑固親爺が不幸むすこを折檻するときでも、こらえこらえた怒りを動作に移してなぐりつける瞬間に不覚の涙をぽろぽろとこぼすのである。これにはもちろん子を哀れみまた自分を哀れむ複雑な心理が伴なってはいるが、しかしともかくもそうした直接行動によ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・や「石棺」時代の名残のようなものが紙面の底から浮上がって来るように私には感ぜられるのである。しかしそういう点を高浜虚子氏に対して感ずる人は割合に少ないかもしれない。丸ビル時代の『ホトトギス』しか知らない人にはちょっとそれが分りにくいのではな・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・追手に捕まって元の曲輪へ送り戻されれば、煙管の折檻に、またしても毎夜の憂きつとめ。死ぬといい消えるというが、この世の中にこの女の望み得べき幸福の絶頂なのである。と思えば先生の耳には本調子も二上りも三下りも皆この世は夢じゃ諦めしゃんせ諦めしゃ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・そこに居るのはどこの下郎の子じゃ、早う下りて参れ、折檻してつかわす。 とな。そなたの主人じゃ、わしじゃ。 と幾度申しても、いくらお小さくても皇帝におなりなされるお方は木にはおのぼりなされても下郎の・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・だと云って、五つの子供が一週間何一つ折檻の種をつくらずに暮すことなど、どうして出来よう。或る土曜日、ゴーリキイは猛烈に抵抗して猶更祖父さんからひどくひっぱたかれ、最後まであやまらないで気絶したことがあった。このことでゴーリキイは熱病にかかり・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・生あるものは総てかく低唱しつつ厚き帳のかなた身じろぐ夜の精を見んと行手すかしつつさぐり見るなり無限の闇の広き宙には乾坤の敗者の歎きと勝者の鬨の声と石棺の底より過去を叫ぶ亡霊のうごめき奇しき形に其の音波・・・ 宮本百合子 「夜」
出典:青空文庫