・・・遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。 板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えているばかり・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・何でも夫人の前身は神戸あたりの洋妾だと云う事、一時は三遊亭円暁を男妾にしていたと云う事、その頃は夫人の全盛時代で金の指環ばかり六つも嵌めていたと云う事、それが二三年前から不義理な借金で、ほとんど首もまわらないと云う事――珍竹林主人はまだこの・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 房子は全身の戦慄と闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、咄嗟に電燈のスウィッチを捻った。と同時に見慣れた寝室は、月明りに交った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台、西洋せいようがや、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如くおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・新しい、これまで知らなかった苦悩のために、全身が引き裂かれるようである。 どうも何物をか忘れたような心持がする。一番重大な事、一番恐ろしかった事を忘れたのを、思い出さなくてはならないような心持がする。 どうも自分はある物を遺却してい・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・強いて一町場ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。 元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ この一声を聞くとともに、一桶の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、「はい。」 と戦きたり。 時彦はいともの静に、「お前、このごろから茶を断ッたな。」「いえ、何も貴下、そんなことを。」 と幽かにいいて・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 容貌甚だ憔悴し、全身黒み痩せて、爪長く髯短し、ただこれのみならむには、一般乞食と変わらざれども、一度その鼻を見る時は、誰人といえども、造化の奇を弄するも、また甚だしきに、驚かざるを得ざるなり。鼻は大にして高く、しかも幅広に膨れたり。そ・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・水を全身に浴みてしまった。若い者共も二頭三頭と次々引出して来る。 人畜を挙げて避難する場合に臨んでも、なお濡るるを恐れておった卑怯者も、一度溝にはまって全身水に漬っては戦士が傷ついて血を見たにも等しいものか、ここに始めて精神の興奮絶頂に・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・二十日の夜行軍、翌二十一日の朝、敵陣に近い或地点に達したのやけど、危うて前進が出来ん。朝飯の際、敵砲弾の為めに十八名の死者を出した。飯を喰てたうえへ砲弾の砂ほこりを浴びたんやさかい、口へ這入るものが砂か米か分らん様であった。僕などは、もう、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
出典:青空文庫