・・・菅笠や草鞋を買うて用意を整えて上野の汽車に乗り込んだ。軽井沢に一泊して善光寺に参詣してそれから伏見山まで来て一泊した。これは松本街道なのである。翌日猿が馬場という峠にかかって来ると、何にしろ呼吸病にかかっている余には苦しい事いうまでもない。・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・其人等は皆脚袢草鞋の出立ちでもとより荷物なんどはすこしも持っていない。一面の田は稲の穂が少し黄ばんで畦の榛の木立には百舌鳥が世話しく啼いておる。早桶は休みもしないでとうとう夜通しに歩いて翌日の昼頃にはとある村へ着いた。其村の外れに三つ四つ小・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ 達二は、明後日から、また自分で作った小さな草鞋をはいて、二つの谷を越えて、学校へ行くのです。 宿題もみんな済ましたし、蟹を捕ることも木炭を焼く遊びも、もうみんな厭きていました。達二は、家の前の檜によりかかって、考えました。(あ・・・ 宮沢賢治 「種山ヶ原」
・・・と村ソヴェトの成立と同時に、彼の草鞋をぬぎすてはしなかった。密造酒をつくることも、仲介人が結納品のかけ合をやる婚礼もすぐには絶えなかった。 昔からの民謡を、ピオニェールも謡うだろう。「ステンカ・ラージンの岩」は伝説をもって、やっぱりヴォ・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・によって、今日はトンネルがくずれて汽車では通れなくなっているところをも街道を草鞋ばきで目的地へ行きつける場合もあること、しかし汽車があるのにちょんまげつけて歩く方を選ぶという方法の唾棄すべきこと、並に、史実は甚だ重要ではあるが唯一の準拠的な・・・ 宮本百合子 「今日の文学の諸相」
・・・花になぞらえ、雲にたとえて、男女相愛の思いは、直接な感覚に迫ったあこがれとして表現されている。しかし、稚い社会にふさわしく稚かったそれらの古代日本人の心情は、同じように燃ゆる思いが、一人から又他の一人へとうつることをあやしまなかった。そのよ・・・ 宮本百合子 「貞操について」
・・・の筆致の自然な勢と傾向とを、そこでは体を堅くして踏んばってそれだけにとどめているところ、そして、愛を誓いあった、という表現が何か全体の雰囲気からよそよそしく浮いているところ、それは逆に作者がそのような相愛の情景を、愛の濤としては描けない自身・・・ 宮本百合子 「文学と地方性」
・・・ 手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋の緒を男結びにして、余った緒を小刀で切って捨てた。 阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国和田に住んだ和田但馬守の裔である。初め蒲生賢秀にしたがっていたが、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・情知で金持で、相愛する二人を困厄の中から救い出す。大抵津藤さんは人の対話の内に潜んでいて形を現さない。それがめずらしく形を現したのは、梅暦の千藤である。千葉の藤兵衛である。 当時小倉袴仲間の通人がわたくしに教えて云った。「あれは摂津国屋・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・男女の上に注ぐ事をも辞しなかった。『門』はその解決である。男女の相愛はこれほど深まることができる。しかし押し倒された正義は執拗に愛する者の胸を噛んでいる。完全に相愛する男女の生活にも惨ましい寂しさがある。そうしてついに正義は蛇のように謀反者・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫