・・・ 乃公いでずんば、蒼生をいかんせむ、さ。三十八度の熱を、きみ、たのむ、あざむけ。プウシュキンは三十六で死んでも、オネエギンをのこした。不能の文字なし、とナポレオンの歯ぎしり。 けれども仕事は、神聖の机で行え。そうして、花を、立ちはだ・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・モスコフスキーはこれを敷衍して「婦人は微分学を創成する事は出来なかったが、ライプニッツを創造した。純粋理性批判は産めないが、カントを産む事が出来る」と云っている。 話頭は転じて、いわゆる「天才教育」の問題にはいる。特別の天賦あるものを選・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・しかしわれわれのような観賞者の立場からすれば配合調和相生というのも、対立衝突相剋というのも、作者の主観以外には現象としての本質的な差を認めなくても結果においてたいした差はないようである。要は結局エイゼンシュテインが視覚的陪音と呼び、あるいは・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・現代人は相生、調和の美しさはもはや眠けを誘うだけであって、相剋争闘の爆音のほうが古典的和弦などよりもはるかに快く聞かれるのであろう。そういう爆音を街頭に放散しているものの随一はカフェやバーの正面の装飾美術であろう。ちょうどいろいろな商品のレ・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・そこには蒲や菱が叢生し、そうしてわれわれが「蝶々蜻蛉」と名付けていた珍しい蜻蛉が沢山に飛んでいた。このとんぼはその当時でも他処ではあまり見たことがなく、その後他国ではどこでも見なかった種類のものである。この濠はあまり人の行かないところであっ・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・とにかくうすら寒い時候に可愛らしい筍をにょきにょきと簇生させる。引抜くと、きゅうっきゅうっと小気味の好い音を出す。軟らかい緑の茎に紫色の隈取りがあって美しい。なまで噛むと特徴ある青臭い香がする。 年取った祖母と幼い自分とで宅の垣根をせせ・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・少しおくれて、それまでは藤棚から干からびた何かの小動物の尻尾のように垂れていた花房が急に伸び開き簇生した莟が破れてあでやかな紫の雲を棚引かせる。そういう時によく武蔵野名物のから風が吹くことがあってせっかく咲きかけた藤の花を吹きちぎり、ついで・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・ 昔の同窓で卒業後まもなく早世したS君に行き会った。昔のとおりの丸顔に昔のとおりのめがねをかけている。話をしかけたが、先方ではどうしても自分を思い出してくれない。他の同窓の名前を列挙してみても無効である。 浜べに近い、花崗石の岩盤で・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・小春の日光はおそらくこれほどうららかには国土蒼生を照らさないであろう。軍縮国防で十に対する六か七かが大問題であったのに、地震国防は事実上ゼロである。そうして為政者の間ではだれもこれを問題にする人がない。戦争はしたくなければしなくても済むかも・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・ 梨の葉に病気がついて黄色い斑紋ができて、その黄色い部分から一面に毛のようなものが簇生することがある。子供の時分からあれを見るとぞうっと総毛立って寒けを催すと同時に両方の耳の下からあごへかけた部分の皮膚がしびれるように感ずるのであった。・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫