・・・彼女は旦那の生前に、自分がもっと旦那の酒の相手でもして、唄の一つも歌えるような女であったなら、旦那もあれほどの放蕩はしないで済んだろうか、と思い出して見た。おげんはこんなことも考えた。彼女と旦那の間に出来たお新は、幼い時分に二階の階段から落・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前、腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席を・・・ 太宰治 「思案の敗北」
・・・その作家の生前に於て、「良風俗」とマッチする作家とは、どんな種類の作家か知っているだろう。 君は、代議士にでも出ればよかった。その厚顔、自己肯定、代議士などにうってつけである。君は、あの「シンガポール陥落」の駄文その中で、木に竹を継いだ・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・ 富本でこなれた渋い声で御生前よくこう言い言いして居られましたから、いずれこれには面白い因縁でもあるのでございましょう。どんな因縁なのだろうなどと野暮なお探りはお止しなさいませ。婆様がお泣きなさるでございましょう。と申しますのは、私の婆・・・ 太宰治 「葉」
・・・故作家と生前、特に親交あり、いま、その作家を追慕するのあまり、彼の戯れにものした絵集一巻、上梓して内輪の友人親戚間にわけてやるなど、これはまた自ら別である。あかの他人のかれこれ容喙すべき事がらでない。 私は一読者の立場として、たとえばチ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 鍋町の風月の二階に、すでにそのころから喫茶室があって、片すみには古色蒼然たるボコボコのピアノが一台すえてあった。「ミルクのはいったおまんじゅう」をごちそうすると言ったS君が自分を連れて行ったのがこの喫茶室であった。おまんじゅうはすなわ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・風邪を引き、軽い肺気腫の兆候があるというので大事を取って休養していたが、一度快くなって、四月五日の工学大会に顔を出したが、その翌日の六日の早朝から急性肺炎の症状を発して療養効なく九日の夕方に永眠した。生前の勲功によって歿後勲一等に叙し瑞宝章・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・始めのうちは振動の問題や海の色の問題や、ともかくも見たところあまり先端的でない、新しがり屋に言わせれば、いわゆる古色蒼然たる問題を、自分だけはおもしろそうにこつこつとやっていた。しかし彼の古いティンダル効果の研究はいつのまにか現在物理学の前・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・ 二 いつか夏目先生生前のある事がらについて調べることがあって小宮君と自分とでめいめいの古い日記を引っぱり出して比べたことがあった。そのとき気のついたのは自分の日記にはとかく食いものの記事が多いということであった・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
・・・流体力学の専門家はその古色蒼然たる基礎方程式を通してのみしか流体を見ないから、いつまでたってもその方程式に含まれていない種類の現象に目の明く日は来ない。 また物理学者は電子や原子の問題の追究に忙しくて、到底日常眼前の現象を省みる暇がない・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
出典:青空文庫