・・・道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋が見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立ってい・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 会社の構内にあった父の社宅は、埠頭から二、三町とは離れていないので、鞭の音をきくかと思うと、すぐさま石塀に沿うて鉄の門に入り、仏蘭西風の灰色した石造りの家の階段に駐った。 家は二階建で、下は広い応接間と食堂との二室である。その境の・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・私は所定めず切貼した本堂の古障子が欄干の腐った廊下に添うて、凡そ幾十枚と知れず淋しげに立連った有様を今もってありありと眼に浮べる。何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になっ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・わたくしはこれを読むと共に、俄にその言うがごとく、秋のながれに添うて小松川まで歩いて見ようと思い、堀割の岸づたいに、道の行くがまま歩みつづけると、忽ち崩れかかった倉庫の立並ぶ空地の一隅に、中川大橋となした木の橋のかかっているのに出会った。・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・いつが起りということもなくもう久しい以前からそうなって畢った。彼は六十を越しても三四十代のもの、特に二十代のものとのみ交って居た。彼の年輩のものは却て彼の相手ではない。彼は村には二人とない不男である。彼は幼少の時激烈なる疱瘡に罹った。身体一・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・彼等の此の異様な姿がぞろぞろと続く時其なかにお石が居れば太十がそれに添うて居ないことはない。然し太十は四十になるまで恐ろしい堅固な百姓であった。彼は貧乏な家に生れた。それで彼は骨が太くなると百姓奉公ばかりさせられた。彼はうまく使えば非常な働・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥ずかしと云う気色も見えぬ。五分刈は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞える・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣のごとき形ちをしてその一番高い背筋を通して硝子張りの明り取りが着いている。このアチックに洩れて来る光線は皆頭の上から真直に這入る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に遮るも・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・河に沿うて往きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼は黒き睫と共に微かに顫えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見われる。梭は再び動き出す。 女はやがて世にあるまじき・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
出典:青空文庫