・・・いくら叔母さんが苛いったって雪の降ってる中を無暗に逃げ出して来て、わたしの家へも知らさないで、甲府へ出てしまって奉公しようと思うとって、夜にもなっているのにそっと此村を通り抜けてしまおうとしたじゃあないか。吾家の母さんが与惣次さんところへ招・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・そのために今から精々立派な、ちっとやそっとで壊れない丈夫なものにして置くんだ!」 と云った。そういう筋のものだった。 小説嫌いの俺も、その言葉が面白かったので、記憶に残っていた。 その警視庁の高い足場の上で、腰に縄束をさげた労働・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・向いたるがさて行義よくては成りがたいがこの辺の辻占淡路島通う千鳥の幾夜となく音ずるるにあなたのお手はと逆寄せの当坐の謎俊雄は至極御同意なれど経験なければまだまだ心怯れて宝の山へ入りながらその手を空しくそっと引き退け酔うでもなく眠るでもなくた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私はここまで連れて来た四人の子供らのため、何かそれぞれ役に立つ日も来ようと考えて、長い旅の途中の道ばたに、思いがけない収入をそっと残して置いて行こうとした。 島崎藤村 「分配」
・・・そうすると馬がまた、「そっとしておおきなさい。それを拾うと、あとで後悔しなければなりませんよ。」と言いました。で、またそのままにして通りすぎましたが、しばらくするとまた一本、前の二つよりも、もっときれいなのが落ちていました。馬はやっぱり・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・深夜、裸形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど、鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自殺を計ったことが・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・と我知らず口に出して言って、五、六間無意識にてくてくと歩いていくと、ふと黒い柔かい美しい春の土に、ちょうど金屏風に銀で画いた松の葉のようにそっと落ちているアルミニウムの留針。 娘のだ! いきなり、振り返って、大きな声で、 「もし・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・それをどう云うものだか、ショッフヨオルの先生が十二の所へそっと廻した。なんだか面倒になりそうだから、おれは十五に相当する金をやった。部屋に這入って見ると、机の上に鹿の角や花束が載っていて、その傍に脱して置いて出た古襟があった。窓を開けて、襟・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・こういう物の運動に関係した問題に触れ初めると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになって来た。ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折って・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・道太は下の座敷の庭先きのところに胡坐を組んで、幾種類となくもっているおひろの智慧の輪を、そっと押入から出して弄っていた。その中には見たこともない皮肉なものもあった。鉄で作った金平糖のようなえらの八方へ出た星を、いくらか歪みなりにできた長味の・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫