・・・ 私はひどく酔っ払ったような気持だった。私の心臓は私よりも慌てていた。ひどく殴りつけられた後のように、頭や、手足の関節が痛かった。 私はそろそろ近づいた。一歩々々臭気が甚しく鼻を打った。矢っ張りそれは死体だった。そして極めて微かに吐・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・しかし、火がついて、下からそろそろ熱くなって来ると、ようやく、これは一大事というように騒ぎはじめるのである。しかし、もう追っつかない。そういうところが、どうも自分に似たところがあるので、私はドンコが好きで、棲家をも「鈍魚庵」とした次第である・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・「さアそろそろ始まッたぞ。今夜は紋日でなくッて、紛紜日とでも言うんだろう。あッちでも始まればこッちでも始まる。酉の市は明後日でござい。さア負けたア負けたア、大負けにまけたアまけたア」と、西宮は理も分らぬことを言い、わざとらしく高く笑うと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そのうちそろそろ我慢がし切れなくなった。余り人を馬鹿にしているじゃないか。オオビュルナンはどこかにベルがありそうなものだと、壁を見廻した。 この時下女が客間に来た。頬っぺたが前に見た時より赤くなっていて、表情が前に見た時より馬鹿らしく見・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・自分も非常に嬉しかったから、そろそろと甲板へ出た。甲板は人だらけだ。前には九州の青い山が手の届くほど近くにある。その山の緑が美しいと来たら、今まで兀山ばっかり見て居た目には、日本の山は緑青で塗ったのかと思われた。ここで検疫があるのでこの夜は・・・ 正岡子規 「病」
・・・「そろそろど押えろよ。そろそろど。」と言いながら一郎は一ぴきのくつわについた札のところをしっかり押えました。嘉助と三郎がもう一匹を押えようとそばへ寄りますと、馬はまるでおどろいたようにどてへ沿って一目散に南のほうへ走ってしまいました。・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 永い間徐行し、シグナルの赤や緑の色が見える構内で一度とまり、そろそろ列車はウラジヴォストクのプラットフォームへ入った。空の荷物運搬車が凍ったコンクリートの上にある。二人か三人の駅員が、眠げにカンテラをふって歩いて来た。 ――誰も出・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・あるいはまた急に踏まれた安価にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、『よろしい、お持ちなされ!』 かれこれするうちに辻は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿に入ってしまった。 シュー・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母あさまにも申し上げてくれ」 武士はいざというときには飽食はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・何んだか、そろそろおかしな話になって来たが、とにかく、お前が病気をしたお蔭で、俺ももう看護婦の免状位は貰えそうになって来たし、不幸ということがすっかり分らなくなって来たし、こんな有り難いことはそうやたらにあるもんじゃない。お前も、ゆっくり寝・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫