たいらのときこ【平時子】
[?〜1185]平清盛の妻。重盛・宗盛・知盛・重衡・徳子の母。三后に准ぜられ、清盛没後、剃髪して二位の尼と称された。壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱いて入水。
たいらのときただ【平時忠】
[1128〜1189]平安末期の公卿。時子・滋子の兄。検非違使 (けびいし) 別当・権大納言。平氏政権中の重要な地位を占めた。「平氏にあらざれば人にあらず」の言葉は有名。壇ノ浦の戦いの後捕らえられ、能登に流されて没した。平大納言。
たいらのとくこ【平徳子】
建礼門院 (けんれいもんいん) の実名。
たいらのとももり【平知盛】
[1152〜1185]平安末期の武将。清盛の四男。権中納言。源頼政を宇治で、源行家を播磨 (はりま) 室山で破った。一ノ谷の戦いで奮戦し、のち、壇ノ浦の戦いで入水。謡曲・浄瑠璃などに脚色される。
たいらののりつね【平教経】
[1160〜1185]平安末期の武将。教盛の子。能登守。勇猛で、源義仲の軍を水島に破り、屋島の戦いでは佐藤継信を射殺。壇ノ浦の戦いで源義経を取り逃がして入水。
たいらののりもり【平教盛】
[1128〜1185]平安末期の武将。忠盛の子。清盛の弟。保元・平治の乱の功で正三位権中納言となった。清盛の邸の門のわきに居を構えて、門脇 (かどわき) 殿とよばれた。源行家を播磨 (はりま) に破ったが、壇ノ浦の戦いで入水。
たいらのまさかど【平将門】
[?〜940]平安中期の武将。高望 (たかもち) の孫。下総 (しもうさ) を本拠として土着豪族の伝統的勢力を継承、伯父国香を殺し、関東の最強豪族となった。下総猿島 (さしま) に王城を営み、文武百官を置いて新皇と称したが、平貞盛・藤原秀郷 (ふじわらのひでさと) に攻められて敗死。 海音寺潮五郎の長編歴史小説。昭和29年(1954)から「経済産業新聞」に連載されたものが初出。単行本は、第一部「帰去来の巻」が昭和30年(1955)、第二部「乱離の巻」が昭和32年(1957)刊行。戦前・戦中の皇国史観により、逆臣として不当に評価されてきたの歴史的位置づけを正そうとした作品。 真山青果の戯曲。大正14年(1925)、雑誌「中央公論」1月号に掲載。昭和2年(1927)2月、井上正夫らが本郷座にて初演。
たいらのまさこ【平政子】
⇒北条政子 (ほうじょうまさこ)
たいらのまさもり【平正盛】
平安後期の武将。清盛の祖父。白河上皇に認められ、伊勢守・因幡 (いなば) 守・讃岐 (さぬき) 守などを歴任。伊勢平氏興隆の基を築いた。生没年未詳。
たいらのむねもり【平宗盛】
[1147〜1185]平安末期の武将。清盛の三男。従一位内大臣。源義仲の軍に追われ、安徳天皇を奉じて京を離れた。のち、義経の軍に一ノ谷の戦いで敗れ、壇ノ浦の戦いで大敗。捕らえられて近江 (おうみ) で斬られた。