・・・山村の若旦那俊雄さまとあにそれこうでもなかろうなれど機を見て投ずる商い上手俊雄は番頭丈八が昔語り頸筋元からじわと真に受けお前には大事の色がと言えばござりますともござりますともこればかりでも青と黄と褐と淡紅色と襦袢の袖突きつけられおのれがと俊・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・という雑誌に発表されたかは、一切不明であるという。のち「蛙」という単行本に、ひょいと顔を出して来たのである。鴎外全集の編纂者も、ずいぶん尋ねまわられた様子であるが、「どうしても分らない。御垂教を得れば幸甚である。」と巻末に附記して在る。私が・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・この作品は三百枚くらいで完成する筈であるが、雑誌に分載するような事はせず、いきなり単行本として或る出版社から発売される事になっているので、すでに少からぬ金額の前借もしてしまっているのであるから、この原稿は、もはや私のものではないのだ。けれど・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・その他にも、私には三つ、四つ、そういう未発表のままの、謂わば筐底深く秘めたる作品があったので、おととしの早春、それらを一纏めにして、いきなり単行本として出版したのである。まずしい創作集ではあったが、私には、いまでも多少の愛着があるのである。・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ある遠い国の炭鉱では鉱山主が爆発防止の設備を怠って充分にしていない。監督官が検査に来ると現に掘っている坑道はふさいで廃坑だということにして見せないで、検査に及第する坑だけ見せる。それで検閲はパスするが時々爆発が起こるというのである。真偽は知・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・それは炭坑の底に働いている坑夫に、天気が晴れているのか暴れているのかが分らないのと同様である。それで扇の動き方でその日の暑さを知ったというのは、雁行の乱るるを見て伏兵を知った名将と同等以上であるのかもしれない。しかしおそらくこれはすべての役・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・高等学校時代のある冬休みに大牟田炭坑を見学に行った時のことである。冬服にメリヤスを重ね着した地上からの訪問者には、地下増温率によって規定された坑内深所の温度はあまりに高過ぎた。おまけに所々に蒸気機関があり、そのスチームパイプが何本も通ってい・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・其ノ単弁淡紅ニシテ彼岸桜ト称スル者最多シ。古又嘗テ吉野山ノ種ヲ移植スト云フ。毎歳立春ノ後五六旬ヲ開花ノ候トナス。」としてある。そして桜花満開の時の光景を叙しては、「若シ夫レ盛花爛漫ノ候ニハ則全山弥望スレバ恰是一団ノ紅雲ナリ。春風駘蕩、芳花繽・・・ 永井荷風 「上野」
・・・宕陰が記の一節に曰く、「凡ソ墨堤十里、両畔皆桜ナリ。淡紅濃白、歩ムニ随テ人ニ媚ブ。遠キハ招クガ如ク近キハ語ラントス。間少シク曲折アリ。第一曲ヨリ東北ニ行クコト三、四曲ニシテ、以テ木母寺ニ至ツテ窮ル。曲曲回顧スレバ花幔地ヲ蔽ヒ恍トシテ路ナキカ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・瞼の周囲に細い淡紅色の絹糸を縫いつけたような筋が入っている。眼をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首をちょっと傾けながらこの黒い眼を移して始めて自分の顔を見た。そうしてちちと・・・ 夏目漱石 「文鳥」
出典:青空文庫