・・・すべての怨、すべての憤、すべての憂と悲みとはこの怨、この憤、この憂と悲の極端より生ずる慰藉と共に九十一種の題辞となって今になお観る者の心を寒からしめている。冷やかなる鉄筆に無情の壁を彫ってわが不運と定業とを天地の間に刻みつけたる人は、過去と・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。 物窮まれば転ず、親が子の死を悲しむという如きやる瀬なき悲哀悔恨は、おのずから人心を転じて・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・「上ッたか、下ッたか、何だか、ちッとも、知らないけれども、平右衛門の台辞じゃアないが、酒でもちッと進らずば……。ほほ、ほほ、ほほほほほほほ」「飲めるのなら、いくらだッて飲んでおくれよ。久しぶりで来ておくれだッたんだから、本統に飲んで・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・おれが不承知だ。こんな美しい物を。これはおれの物だ。誰にも指もささせぬ。おれが大事にしている。側に寄るな。寄るとあぶないぞ。」手には小刀が光っている。 爺いさんはまた二三歩退いた。そして手早く宝石を靴の中に入れて、靴を穿いた。それから一・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・婚姻は人間の大事なれば父母の同意即ち其許なくては叶わず、なれども父母の意見を以て子に強うるは尚お/\叶わぬことなり。父母が何か為めにする所ありて無理に娘を或る男子に嫁せしめんとして、大なる間違を起すは毎度聞くことなり。左れば男女三十年二十五・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・この夫婦には子は一人もないのでこの上さんは大きな三毛猫を一匹飼うて子よりも大事にして居る。しかし猫には夕飯まで喰わして出て来たのだからそれを気に掛けるでもないが、何しろ夫婦ぐらしで手の抜けぬ処を、例年の事だから今年もちょっとお参りをするとい・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・「じゃ、さよなら、お大事においでなさい」 奇麗なすきとおった風がやって参りました。まず向こうのポプラをひるがえし、青の燕麦に波をたてそれから丘にのぼって来ました。 うずのしゅげは光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・ ちょうどそのころ沙車の町はずれの砂の中から、古い沙車大寺のあとが掘り出されたとのことでございました。一つの壁がまだそのままで見附けられ、そこには三人の天童子が描かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判しましたそうです。或・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 一、民主的な社会で、大切なのは多数の人々の意見であり、多数の人々が自分の意見を出し合って、その結論を互に出発したところよりは高く豊富で合理的なところに育ててゆくのが大事な特長です。 一、輿論というと、むずかしく思えるけれども、誰で・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・ 品川の伯父さんは、良人が留守な姪の子たちを丈夫にしてやろうと、大磯の妙大寺という寺の座敷を一夏借りて、皿小鉢のようなものまで準備された。 西村の祖母、母、子供三人の同勢はそこへ出かけて、子供らは、生れてはじめて海岸の巖の間で波と遊・・・ 宮本百合子 「白藤」
出典:青空文庫