・・・ 女は二十二三でもあろうか、目鼻立ちのパラリとした、色の白い愛嬌のある円顔、髪を太輪の銀杏返しに結って、伊勢崎の襟のかかった着物に、黒繻子と変り八反の昼夜帯、米琉の羽織を少し抜き衣紋に被っている。 男はキュウと盃を干して、「さあお光・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・おぶさりました。すると、そのお爺さんのしゃべっている事がよく聞えて来ました。「ええ。お立ち合いの皆々様。わたくしは皆様方のお望みになる事なら、どんな事でもして御覧に入れます。大江山の鬼が食べたいと仰しゃる方があるなら、大江山の鬼を酢味噌・・・ 小山内薫 「梨の実」
秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う。まことにもの想う人は、季節の移りかわりを敏感に感ずるなかにも、わけていわゆる秋のけはいの立ちそめるのを、ひと一倍しみじみと感ずることであろう。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・その部屋のなかには白い布のような塊りが明るい燈火に照らし出されていて、なにか白い煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立ち騰っている。そしてそれがだんだんはっきりして来るんですが、思いがけなくその男がそこに見出したものはベッドの上にほしい・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・尾上に雲あり、ひときわ高き松が根に起りて、巌にからむ蔦の上にたなびけり。立ち続く峰々は市ある里の空を隠して、争い落つる滝の千筋はさながら銀糸を振り乱しぬ。北は見渡す限り目も藐に、鹿垣きびしく鳴子は遠く連なりて、山田の秋も忙がしげなり。西はは・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・』 さアと促されて吉次も仕方なく連れだって行けば、お絹は先に立ち往来を外れ田の畔をたどり、堤の腰を回るとすぐ海なり。沖はよく和ぎて漣の皺もなく島山の黒き影に囲まれてその寂なるは深山の湖水かとも思わるるばかり、足もとまで月影澄み遠浅の砂白・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 最後にこの天理の自然、生命の法則という視点から、最初に立ちかえって、夫婦生活というものには無理が含まれていることも、英知をもって認めておかなくてはならぬ。この無理をどう扱うかということが生活のひとつの知恵である。 性の欲求、恋愛は・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 栗本は銃を杖にして立ち上った。 兵士達は、靴を引きずりながら、草の上を進んだ。彼等は湿って水のある方へ出て行った。草は腰の帯革をかくすくらいに長く伸び茂っていた。「見えるぞ、見えるぞ!」 右の踏みならされた細道を進んでいる・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・いわんやまた趣味には高下もあり優劣もあるから、優越の地に立ちたいという優勝慾も無論手伝うことであって、ここに茶事という孤独的でない会合的の興味ある事が存するにおいては、誰か茶讌を好まぬものがあろう。そしてまた誰か他人の所有に優るところの面白・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・出口にちょっと立ち止まって、手袋をはきながら、龍介は自分が火の気のない二階で「つくねん」と本を読むことをフト思った。彼はまるで、一つの端から他の端へ一直線に線を引くように、自家へ帰ることがばかばかしくなった。彼は歩きだしながら、どうするかと・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫