・・・こっちへ開いたら、俺は下の敷石へ突き落されちまうじゃないか。私は押した。少し開きかけたので力を緩めると、又元のように閉ってしまった。「オヤッ」と私は思った。誰か張番してるんだな。「オイ、俺だ。開けて呉れ」私は扉へ口をつけて小さい声で・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・おいらあ、一月娑婆に居りあ、お前さんなんかが、十年暮してるよりか、もっと、世間に通じちまうんだからね。何てったって、化けるのは俺の方が本職だよ。尻尾なんかブラ下げて歩きゃしねえからな。駄目だよ。そんなに俺の後ろ頭ばかり見てたって。ホラ、二人・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊下を急歩で行くのは、当楼の二枚目を張ッている吉里という娼妓である。「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁、困りますよ」と、吉里の後から追い縋ッたのはお熊と・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・いやになってしまう。もうだめかな。もういかんや。ほんとうに人を馬鹿にしとる。いやになっちまうな。いやになりんすだ。いやだいやだも………だっていやがらア。衣、骭に――到り――か、天下の英雄は眼中にあり――か。人を馬鹿にしてるな。そりゃ、聞えま・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・ぼくたちなんか、鼻でふきとばされちまうよ。」「ぼくね、いいもの持っているんだよ。だからだいじょうぶさ。見せようか。そら、ね。」「これおっかさんの髪でこさえた網じゃないの。」「そうだよ。おっかさんがくだすったんだよ。なにかおそろし・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・その日は、事によると僕はタスカロラ海床のすっかり北のはじまで行っちまうかも知れないぜ。今日もこれから一寸向うまで行くんだ。僕たちお友達になろうかねえ。」「はじめから友だちだ。」一郎が少し顔を赤くしながら云いました。「あした僕は又どっ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 澄ちゃんは「兄さんたら、僕男だからいいんだよって、何にもしないで、遊びに出ちまうのよ」ってよく不平を云いますね。あれがね、ソヴェトの世の中になると、ないのよ。男の子だからって、ブルジョア国のように威張ることなんか決してない。みんながし・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・ 燃しちまう! ああ燃しちまうとも! 糞!」 おしまは、「お前一人ででかしたようにほざくねえ! おめえが燃すというんならおれだって半こ半こだ! ほらよ、燃してくれべえ」 勇吉の家は、畑中で近所が少し離れている。それだからいいよう・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・兄きは大鳥圭介に附いて行っちまう。お袋と己とは広徳寺前の屋敷にぼんやりしていると、上野の戦争が始まった。門番で米擣をしていた爺いが己を負ぶって、お袋が系図だとか何だとかいうようなものを風炉敷に包んだのを持って、逃げ出した。落人というのだな。・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・と仰しゃるもんだから、お目に掛ったその日は木登りをして一番大きな松ぼっくりを落したというような事から、いつか船に乗って海へ行って見たいなんていう事まで、いっちまうと、面白がって聞ていて下すったんです。 時々は夢に見たって色々不思議な話し・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫