・・・水甕の素材は二度と使えなくても、学説や理論の素材はいつでもまた使える。こういうふうに考えて来ると学問の素材の供給者が実に貴いものとして後光を背負って空中に浮かみ上がり、その素材をこねてあまり上できでもない品物をひねり出す陶工のほうははなはだ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・立ったら頭の閊える箱の中に数人の客をのせたのを二、三人の人間が後押しして曲折の多い山坂を登る。登るときは牛のようにのろい代りに、下り坂は奔馬のごとくスキーのごとく早いので、二度に一度は船暈のような脳貧血症状を起こしたものである。やっと熱海の・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・長い橋の中ほどに立って眺望を恣にすると、対岸にも同じような水門があって、その重い扉を支える石造の塔が、折から立籠める夕靄の空にさびしく聳えている。その形と蘆荻の茂りとは、偶然わたくしの眼には仏蘭西の南部を流れるロオン河の急流に、古代の水道の・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・それにしても妻によくこんな気のきいた言葉が使えると思って、お前誰かに教わったのかいと、なにも答えないさきに、まず冗談半分の疑いをほのめかしてみた。すると妻は存外まじめきった顔つきで、なにをですと問い返した。開き直ったというほどでもないが、こ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・善い意味、善い意味の道楽という字が使えるか使えないか、それは知りませぬが、だんだん話して行く中に分るだろうと思う。もし使えなかったら悪い意味にすればそれでよいのであります。 道楽と職業、一方に道楽という字を置いて、一方に職業という字を置・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
此間魯庵君に会った時、丸善の店で一日に万年筆が何本位売れるだろうと尋ねたら、魯庵君は多い時は百本位出るそうだと答えた。夫では一本の万年筆がどの位長く使えるだろうと聞いたら、此間横浜のもので、ペンはまだ可なりだが、軸が減った・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない。生きるというは活動しているという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・換言すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるという事なのです。前申した、仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心と・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・元来仕えるとは、君臣主従など言う上下の身分を殊にして、下等の者が上等の者に接する場合に用うる文字なり。左れば妻が夫に仕えるとあれば、其夫妻の関係は君臣主従に等しく、妻も亦是れ一種色替りの下女なりとの意味を丸出にしたるものゝ如し。我輩の断じて・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・六原に居たんじゃ馬は使えるだろうな。」「使えます。」「いつまでこっちに居るつもりだい。」「ずっと居ますよ。」「そうか。」農夫長はだまってしまいました。 一人の農夫が兵隊の古外套をぬぎながら入って来ました。「場長は帰っ・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
出典:青空文庫