・・・その声を聞くものは、譬えば闇の夜が吐く溜息を聞くかと思った。その声を聞けば、何となく暖かい家が慕わしくなる。愛想のある女の胸が慕わしくなる。犬は吠え続けた。 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・A 理窟は何にでも着くさ。ただ世の中のことは一つだって理窟によって推移していないだけだ。たとえば、近頃の歌は何首或は何十首を、一首一首引き抜いて見ないで全体として見るような傾向になって来た。そんなら何故それらを初めから一つとして現さない・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・といったのは、よく這般のいわゆる文明を冷評しつくして、ほとんど余地を残さぬ。 予は今ここに文明の意義と特質を論議せむとする者ではないが、もし叙上のごとき状態をもって真の文明と称するものとすれば、すべての人の誇りとするその「文明」なるもの・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 椅子を差置かれた池の汀の四阿は、瑪瑙の柱、水晶の廂であろう、ひたと席に着く、四辺は昼よりも明かった。 その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の縺るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ そこで、卓子に肱をつくと、青く鮮麗に燦然として、異彩を放つ手釦の宝石を便に、ともかくも駒を並べて見た。 王将、金銀、桂、香、飛車、角、九ツの歩、数はかかる境にも異はなかった。 やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折か・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 巣から落ちた木菟の雛ッ子のような小僧に対して、一種の大なる化鳥である。大女の、わけて櫛巻に無雑作に引束ねた黒髪の房々とした濡色と、色の白さは目覚しい。「おやおや……新坊。」 小僧はやっぱり夢中でいた。「おい、新坊。」 ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ また、千太がね、あれもよ、陸の人魂で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生逢わねえというんだが、十三で出っくわした、奴は幸福よ、と吐くだあね。 おらあ、それを聞くと、艪づかを握った手首から、寒くなったあ。」「……まあ、厭じゃないかね・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ と、翁が手庇して傾いた。 社の神木の梢を鎖した、黒雲の中に、怪しや、冴えたる女の声して、「お爺さん――お取次。……ぽう、ぽっぽ。」 木菟の女性である。「皆、東京の下町です。円髷は踊の師匠。若いのは、おなじ、師匠なかま、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のお菜に――荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、自棄に煙を吐く艇から、手鈎で崖肋腹へ引摺上げた中から、そのまま跣足で、磯の巌道を踏んで来たのであった。 まだ船底を踏占めるよ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・さまでにして、手に入れる餌食だ。突くとなれば会釈はない。骨までしゃぶるわ。餌食の無慙さ、いや、またその骨の肉汁の旨さはよ。一の烏 (聞く半ばより、じろじろと酔臥おふた、お二どの。二の烏 あい。三の烏 あい、と吐す、魔ものめが、ふ・・・ 泉鏡花 「紅玉」
出典:青空文庫