・・・擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽を飛び出した。飛び出しはしたも・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・……顔の周囲を巻いている髪の毛が、先っきから流れる水に漬けた様にざわざわと動いている。髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・しかし主命ですから反抗する訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜で一本一本抜かして、それを味淋か何かに漬けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧な料理方で秋刀魚の味を失・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・今日の国家主義は、かかる世界的世界形成主義に基礎附けられていなければならない。単に各国家が各国家にと云うことではない。今日の世界状勢は世界が何処までも一とならざるべからざるが故に、各国家が何処までも各自に国家主義的たらねばならぬのである。而・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・私は蛞蝓に会う前から、私の知らない間から、――こいつ等は俺を附けて来たんじゃないかな―― だが、私は、用心するしないに拘らず、当然、支払っただけの金額に値するだけのものは見得ることになった。私の目から火も出なかった。二人は南京街の方へと・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「ちょいと行ッて来ちゃアどうだね、も一杯威勢を附けて」 西宮が与した猪口に満々と受けて、吉里は考えている。「本統にそうおしよ。あんまり放擲ッといちゃアよくないよ。善さんも気の毒な人さ。こんなに冷遇ても厭な顔もしないで、毎晩のよう・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・数日前から夜ごとに来て寝る穴が、幸にまだ誰にも手を附けられずにいると云うことが、ただ一目見て分かった。古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。 雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろになった上着と、だぶだぶして体に合・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・女子の天性容色を重んずるが故に、其唯一に重んずる所の容よりも心の勝れたるこそ善けれと記して、文章に力を付けたるは巧なりと雖も、唯是れ文章家の巧として見る可きのみ。其以下婦人の悪徳を並べ立てたる箇条は読んで字の如く悪徳ならざるはなし。心騒しく・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・智識の眼より見るときは、清元にもあれ常磐津にもあれ凡そ唱歌といえるものは皆人間の声に調子を付けしものにて、其調子に身の有るものは常磐津となり意気なものは清元となると、先ず斯様に言わねばならぬ筈。されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかい・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・親を亡くした当座で、左の腕に喪章を附けている。その時のマドレエヌはどうであったか。栗色の髪の毛がマドンナのような可哀らしい顔を囲んでいる若後家である。その時の場所はどんな所であったか。イソダンの小さい客間である。俗な、見苦しい、古風な座敷で・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫