・・・民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢をかぎりかけた。 半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木の間から影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・そして、こんなに暗くなって、おじいさんはさぞ路がわからなくて困っていなさるだろうと、広い野原の中で、とぼとぼとしていられるおじいさんの姿を、いろいろに想像したのでした。「さあ、お休み、おじいさんがお帰りになったら、きっとおまえを起こして・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・爺は胡弓を持って、とぼとぼと子供の後から従いました。 その町の人々は、この見慣れない乞食の後ろ姿を見送りながら、どこからあんなものがやってきたのだろう。これから風の吹くときには気をつけねばならぬ。火でもつけられたりしてはたいへんだ。早く・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・ するとじいさんは、とぼとぼとした歩きつきをして、ケーの方に寄ってきて、「私だ、おまえを起こしたのは! 私はおまえに頼みがある。じつは私がこの眠い町を建てたのだ。私はこの町の主である。けれど、おまえも見るように、私はもうだいぶ年を取・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・ 空には軽気球がうかんでいて、百貨店の大売出しの広告文字がぶらさがっていた。とぼとぼ河堀口へ帰って行く道、紙芝居屋が、自転車の前に子供を集めているのを見ると、ふと立ち停って、ぼんやり聴いていたくらい、その日の私は途方に暮れていました。と・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・それで、お君は、「あわれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文のいいかわし、毎夜毎夜の死覚悟、魂抜けてとぼとぼうかうか身をこがす……」 と、「紙治」のサワリなどをうたった。下手くそでもあったので、軽部は何か言いかけたが、・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ やがて二人はとぼとぼ帰って行った。暮れにくい夏の日もいつか暮れて行き、落日の最後の明りが西の空に沈んでしまうと、夜がするすると落ちて来た。 急いで帰らねば、外出時間が切れてしまう。しかし、このまま手ぶらで帰れば、咽から手の出るほど・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・そしてちょっと考えて、神楽坂の方へとぼとぼ……、その坂下のごみごみした小路のなかに学生相手の小質屋があり、今はそこを唯一のたのみとしているわけだが、しかし質種はない。いろいろ考えた末、ポケットにさしてある万年筆に思い当り、そや、これで十円借・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・四尺にも足りないちいさな老婆がその灯を持ってとぼとぼやって来るようだ。カラコロと下駄の音が聴える。出会いがしらにふっと顔を覗かれる、あっ、老婆の顔は白い粉を吹いたように真っ白で、眼も鼻も口もない……。 すべてはその道に原因していたんだと・・・ 織田作之助 「道」
・・・その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、難波新地へはまりこんで、二日、使い果して魂の抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。「帰るとこ、よう忘れん・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫