・・・それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。「だからさ、だから今日は谷村博士に来て貰うと云っているんじゃないか?」 賢造はとうとう苦い顔をして、抛り出すようにこう云った。洋一も姉の剛情なのが、さすがに少し面・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 僕は煮え切らない返事をした。それはついきのうの朝、或女学校を参観に出かけ、存外烈しい排日的空気に不快を感じていた為だった。しかし僕等を乗せたボオトは僕の気もちなどには頓着せず、「中の島」の鼻を大まわりに不相変晴れやかな水の上をまっ直に・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・面白くない勝負をして焦立った仁右衛門の腹の中とは全く裏合せな煮え切らない景色だった。彼れは何か思い切った事をしてでも胸をすかせたく思った。丁度自分の畑の所まで来ると佐藤の年嵩の子供が三人学校の帰途と見えて、荷物を斜に背中に背負って、頭からぐ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・その側で鉄瓶のお湯がいい音をたてて煮えていた。 僕にはそこがそんなに静かなのが変に思えた。八っちゃんの病気はもうなおっているのかも知れないと思った。けれども心の中は駈けっこをしている時見たいにどきんどきんしていて、うまく口がきけなかった・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐る勢で、お藻代さんの、恍惚したその寝顔へ、蓋も飛んで、仰向けに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょうか、玉をやけば紫でしょうか……ばっと煮えた湯気が立ったでしょう。……お藻代さんは、地獄の釜で煮られた・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・……溝の上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどに蜆が泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。…… 山も、空も氷を透すごとく澄みきって、松の葉、枯木の閃くばかり、晃々と陽がさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立して、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ やがて芋が煮えたというので、姉もおとよさんといっしょに降りてくる。おおぜい輪を作って芋をたべる。少しく立ちまさった女というものは、不思議な光を持ってるものか、おとよさんがちょっとここへくればそのちょっとの間おとよさんがこの場の中心にな・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・十日ばかり以前から今日あることは判っているから充分の覚悟はしているものの、今さらに腹の煮え切る思いがする。「さあおとよさん、一緒にゆきましょう」 お千代は枝折戸の外まできて、「まあえい天気なこと」 お千代は気楽に田圃を眺めて・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・畳一枚ほどに切れている細長い囲炉裡には、この暑いのに、燃木が四、五本もくべてあって、天井から雁木で釣るした鉄瓶がぐらぐら煮え立っていた。「どうも、毎度、子供がお世話になって」と、炉を隔てて僕と相対したお貞婆さんが改まって挨拶をした。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・そして戸を開けてのぞきながら、「どうか私に煮えた魚と、暖かいご飯を売ってください。銭はないけれど、ここにみごとなさんご樹と、きれいな星のような真珠と、重たい金の塊があります。私はなんでも暖かな食べ物を持っていって、お爺さんにあげたいと思・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
出典:青空文庫