・・・千駄木の泥濘はまだ乾かぬ。これが乾くと西風が砂を捲く。この泥に重い靴を引きずり、この西風に逆らうだけでも頬が落ちて眼が血走る。東京はせちがらい。君は田舎が退屈だと言って来た。この頃は定めてますます肥ったろう。僕は毎日同じ帽子同じ洋服で同じ事・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
一 神保町から小川町の方へ行く途中で荷馬車のまわりに人だかりがしていた。馬が倒れたのを今引起こしたところであるらしい。馬の横腹から頬の辺まで、雨上がりの泥濘がべっとりついて塗り立ての泥壁を見るようで・・・ 寺田寅彦 「断片(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そして春田のような泥濘の町を骨を折って歩かなければならなかった。そのうちに天気が好くなると今度は強い南のから風が吹いて、呼吸もつまりそうな黄塵の中を泳ぐようにして駆けまわらねばならなかった。そして帽子をさらわれないために間断なき注意を余儀な・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・電車線路のすぐ脇の泥濘の上に、何かしら青い粉のようなものがこぼれている。よく見ると、たぶん、ついそこの荷揚場から揚げる時にこぼれたものだろう、一握りばかりの豌豆がこぼれている。それが適当な湿度と温度に会って発芽しているのであった。 植物・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・こんな厭な時候に、ただ一つ嬉しいのは、心ゆくばかり降る雨の夕を、風呂に行く事である。泥濘のひどい道に古靴を引きずって役所から帰ると、濡れた服もシャツも脱ぎ捨てて汗をふき、四畳半の中敷に腰をかけて、森の葉末、庭の苔の底までもとしみ入る雨の音を・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・人達の下駄の歯についた雪の塊が半ば解けて、土間の上は早くも泥濘になって居た。御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々として、寒さに顫えながら、台所の板の間に造り付けたように坐って居・・・ 永井荷風 「狐」
・・・路は歯の廻らないほど泥濘っているので、車夫のはあはあいう息遣が、風に攫われて行く途中で、折々余の耳を掠めた。不断なら月の差すべき夜と見えて、空を蔽う気味の悪い灰色の雲が、明らさまに東から西へ大きな幅の広い帯を二筋ばかり渡していた。その間が白・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・亭主も二十世紀の人間だからその辺に抜かりはない。代言人の所へ行ってちゃんと相談している。日没後日出前なれば彼の家具を運び出しても差配は指を啣えて見物しておらねばならぬと云う事を承知している。それだから朝の三時頃から大八車を※って来て一晩寝ず・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・おとといのような泥濘になると、おそろしく泥の飛沫をはじきとばす。櫛比した宿屋と宿屋との軒のあわいを、乗合自動車がすれすれに通るのであるから、太い木綿縞のドテラの上に小さい丸髷の後姿で、横から見ると、ドテラになってもなおその襟に大輪の黄菊をつ・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・聞いてると、まるで泥濘さはまって足を抜けねえような塩梅式だ」「思うに、無駄ばっかりだ」 四十男の働き者のブリーノフが続いて云い出した。「俺の好みがそうなのかも知れねえが、こういうことは二章で書けたと思うね、それをパンフョーロフは・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
出典:青空文庫