・・・鬢の毛がねっとりと、あの気味の悪いほど、枕に伸びた、長い、ふっくりしたのどへまつわって、それでいて、色が薄りと蒼いんですって。……友染の夜具に、裾は消えるように細りしても――寝乱れよ、おじさん、家業で芸妓衆のなんか馴れていても、女中だって堅・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ と、何かさも不平に堪えず、向腹を立てたように言いながら、大出刃の尖で、繊維を掬って、一角のごとく、薄くねっとりと肉を剥がすのが、――遠洋漁業会社と記した、まだ油の新しい、黄色い長提灯の影にひくひくと動く。 その紫がかった黒いのを、・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・むろん山谷を追いだしたのだが、山谷のねっとりと油の浮いたような顔は安二郎の頭を絶えず襲ってきた。安二郎の顔にはみるみる懊悩の色が刻みこまれた。罵倒してみても、撲ってみても心が安まらなかった。安二郎は五十面下げて嫉妬に狂いだしていた。お君がこ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・は白味噌のねっとりした汁を食べさす小さな店であるが、汁のほかに飯も酒も出さず、ただ汁一点張りに商っているややこしい食物屋である。けれどもこの汁は、どじょう、鯨皮、さわら、あかえ、いか、蛸その他のかやくを注文に応じて中へいれてくれ、そうした魚・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかと云ったことがある。余はそ・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・は糞尿汲取の利権をめぐる地方の小都市の政党的軋轢を題材として、文章の性格は説話体であり、石坂洋次郎などの文章の肉体と相通じた一種のねっとりとした線の太さ、グロテスクな味いを持ったものであった。題材は社会的な素材を捉えながら文学としての特質は・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・文章の肌もねっとりとして、寝汗のようで、心持よくありません。しかし、作者は、どうもそれを知っているらしいんです。その気味わるいような、ブリューゲルふうの筆致が、作品の世界の、いまだ解決されない憂鬱の姿を最もよくうつすと思って、ああいうふうに・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
・・・その下にねっとり白く咲く梨の花の調子は、不安なポプラの若葉の戦ぎと伴って、一つの音楽だ。熱情的な五月の音楽だ――何の花だろう。何の花だろう。朝起きるとその木を見る。女中に訊いても樹の名を知らぬ或る朝、ところが、一番日当りよい下枝の蕾が開いた・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
・・・耳の横や食い足りない思いをして居る大きな口のまわりに特に濃く、そして体全体に異様にねっとり粘りついている蒼黒さは東端の貧の厚みからにじみ出すものだ。子供等自身はそれについて知らぬ。富裕なるロンドン市が世界に誇る、英国の暮し向よき中流層を拡大・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・市街は、オランダの陶器絵のように愛らしく美しい。ねっとりした緑の街路樹、急に煉瓦色のこまやかな建物の正面。車道を辷るシトロエンが夢のようなレモン色だ。女の赤い帽子、総ての色調を締める黒の男性散策者。 人は心を何ものかにうばわれたように歩・・・ 宮本百合子 「わが五月」
出典:青空文庫