・・・すると電燈の薄暗い壁側のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い籐の杖を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして闊達に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く挨拶をした。「陳さんですか? 私は吉井です。」 陳はほとんど無表情・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・これは、鴎の卵をさがしに行った男が、ある夜岸伝いに帰って来ると、未だ残っている雪の明りで、磯山の陰に貉が一匹唄を歌いながら、のそのそうろついているのを目のあたりに見たと云うのである。 既に、姿さえ見えた。それに次いで、ほとんど一村の老若・・・ 芥川竜之介 「貉」
・・・そこで恵印は大事をとって、一生懸命笑を噛み殺しながら、自分も建札の前に立って一応読むようなふりをすると、あの大鼻の赤鼻をさも不思議そうに鳴らして見せて、それからのそのそ興福寺の方へ引返して参りました。「すると興福寺の南大門の前で、思いが・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。妻は眼に角を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。暫らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬を右手に提げて小屋から出て来た。「ついて来・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・手許が暗くなりましたので、袖が触りますばかりに、格子の処へ寄って、縫物をしておりますと、外は見通しの畠、畦道を馬も百姓も、往ったり、来たりします処、どこで見当をつけましたものか、あの爺のそのそ嗅ぎつけて参りましてね、蚊遣の煙がどことなく立ち・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・猟はこういう時だと、夜更けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉端で茶漬を掻っ食らって、手製の猿の皮の毛頭巾を被った。筵の戸口へ、白髪を振り乱して、蕎麦切色の褌……いやな奴で、とき色の禿げたのを不断まきます、尻端折りで、六十九歳の代官婆・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・しかしそれがやっとのことで成功したと思うと、方向を変えた猫は今度はのそのそと吉田の寝床の上へあがってそこで丸くなって毛を舐めはじめた。そこへ行けばもう吉田にはどうすることもできない場所である。薄氷を踏むような吉田の呼吸がにわかにずしりと重く・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ いやでござりますともさすがに言いかねて猶予う光代、進まぬ色を辰弥は見て取りて、なお口軽に、私も一人でのそのそ歩いてはすぐに飽きてしまってつまらんので、相手欲しやと思っていたところへここにおいでなさったのはあなたの因果というもの、御迷惑・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・桑園の方から家鶏が六、七羽、一羽の雄に導かれてのそのそと門の方へやって来るところであった。 たちまち車井の音が高く響いたと思うと、『お安、金盥を持って来てくれろ』という声はこの家の主人らしい。豊吉は物に襲われたように四辺をきょろきょろと・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 父は、臼の漏斗に小麦を入れ、おとなしい牛が、のそのそ人の顔を見ながら廻っているのを見届けてから出かけた。 藤二は、緒を買って貰ってから、子供達の仲間に入って独楽を廻しているうちに、自分の緒が他人のより、大分短いのに気づいた。彼は、・・・ 黒島伝治 「二銭銅貨」
出典:青空文庫