・・・しかしわたしはそれらの背後に、もう一つ、――いや、それよりも遥かに意味の深い、興味のある特色を指摘したい。その特色とは何であるか? それは道徳的意識に根ざした、何物をも容赦しないリアリズムである。 菊池寛の感想を集めた「文芸春秋」の中に・・・ 芥川竜之介 「「菊池寛全集」の序」
・・・マルクスは唯物史観に立脚したと称せられているけれども、もし私の理解が誤っていなかったならば、その唯物史観の背後には、力強い精神的要求が潜んでいたように見える。彼はその宣言の中に人々間の精神交渉を根柢的に打ち崩したものは実にブルジョア文化を醸・・・ 有島武郎 「想片」
・・・ フレンチは罪人の背後から腕が二本出るのを見た。しかしそれが誰の腕だか分からなかった。黒い筒袖を着ている腕が、罪人の頭の上へ、金属で拵えた、円いのようなものを持って来て、きちょうめんに、上手に、すばやく、それを頸の隠れるように、すっぽり・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の縺るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折戸を開いた侍女は、二人とも立花の背後に、しとやかに手を膝に垂れて差控えた。 立花は言葉をかけようと思っ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、背後で割れるような笑い声がした。ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧盻って見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに白壁のように塗り立てた夫人とクッつき合って・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・その時女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した。 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛のがする。この辺の家の窓は、五味で茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 光治は心のうちで懐かしい少年だと思いながら、静かに少年の背後に立って、少年の描いている絵に目を落としますと、それは前方の木立を写生しているのでありましたが、びっくりするほど、いきいきと描けていて、その木の色といい、土の色といい、空の感・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・と若衆も驚いて振り返ると、お上さんのお光はいつの間にか帰って背後に立っている。「精が出るね」「へへ、ちっともお帰んなすったのを知らねえで……外はお寒うがしょう?」「何だね! この暖かいのに」と蝙蝠傘を畳む。「え、そりゃお天気・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 翌朝、散歩していると、いきなり背後から呼びとめられた。 振り向くと隣室の女がひとりで大股にやって来るのだった。近づいた途端、妙に熱っぽい体臭がぷんと匂った。「お散歩ですの?」 女はひそめた声で訊いた。そして私の返事を待たず・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・変にこう身体がぞくぞくしてくるんで、『お出でなすったな』と思っていると、背後から左りの肩越しに、白い霧のようなものがすうっと冷たく顔を掠めて通り過ぎるのだ。俺は膝頭をがたがた慄わしながら、『やっぱし苦しいと見えて、また出やがったよ』と、泣笑・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫