・・・三次が手を放した時犬は四つ足を屈めて地を偃うように首を垂れて身を蹙めた。そうして盗むように白い眼で三次を見た。犬がひいひい鳴いた時太十はむっくり起きた。彼の神経は過敏になって居た。「おっつあん」と先刻の対手が喚びかけた。太十はまたご・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 女は幕をひく手をつと放して内に入る。裂目を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立ちて見える。左右に開く廻廊には円柱の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッて、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・子女が何かの事に付き母に語れば父にも亦これを語り、父の子に告ぐることは母も之を知り、母の話は父も亦知るようにして、非常なる場合の外は一切万事に秘密なく、家内恰も明放しにして、親子の間始めて円滑なる可し。是れは自分の意なれども父上には語る可ら・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・その田舎の女とはどんな物かと申しますと、恋の実体を夫婦と云う事から引き放して考えることの出来ない女だと申すのでございます。これは多数の女のために極めて不幸な事でございます。そしてわたくしはその不幸を身に受けなくてはならぬ一人でございます。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・昨夜華光来趁我、臨行奪下一金磚、と歌いきって櫓を放した。それから船頭が、板刀麺が喰いたいか、飩が喰いたいか、などと分らぬことをいうて宋江を嚇す処へ行きかけたが、それはいよいよ写実に遠ざかるから全く考を転じて、使の役目でここを渡ることにしよう・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・「どうだ。この空気のうまいこと。」「おい。帰ろうよ。ひっぱらないで呉れよ。」「実にいい景色だねえ。」「放して呉れ。放して呉れ。放せったら。畜生。」「おや、君は何かに足をかじられたんだね。そんなにもがかなくてもいいよ。しっ・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・彼女たちは完全に客をその男の店員にゆずって、そして任せて、自分は気を放してしまっている。知らないままにのこっていることに、安じている。これは何故だろう。 或る出版会社に勤めている若い男の友達がこんなことを云った。うちにも何人か若い女のひ・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・ 障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。そのくせ燭台の火はゆらめいている。螢が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。 一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中一般の噂じゃというから、おぬし・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・陛下、お気が狂わせられたのでございます。陛下、お放しなされませ」 しかし、ナポレオンの腕は彼女の首に絡まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄えていた。ナポレオンの残忍性はルイザが藻掻けば藻掻くほど怒りと共に昂進した。彼は片手・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫