・・・彼らはまた朝早くから四里も五里も山の中の山葵沢へ出掛けて行く。楢や櫟を切り仆して椎茸のぼた木を作る。山葵や椎茸にはどんな水や空気や光線が必要か彼らよりよく知っているものはないのだ。 しかしこんな田園詩のなかにも生活の鉄則は横たわっている・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて御挨拶に罷り出でしが、書記官様と聞くよりなお一層敬い奉りぬ。 琴はやがて曲を終りて、静かに打ち語らう声のたしかならず聞ゆ。辰弥・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と声を低く、「きのうから出ていない樋口が、どこからか鸚鵡を持って来たが、君まだ見まい、早く見て来たまえ」と言いますから、私はすぐ樋口の部屋に行きました。裏の畑に向いた六畳の間に、樋口とこの家の主人の後家の四十七八になる人とが、さし向かいで何・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 権利思想の発達しないのは、東洋の婦人の時代遅れの点もあろうが、われわれはアメリカ婦人のようなのが、婦人として本性にかなった正常な姿ではなく、やはり社会の欠陥から生じた変態であって、われわれは早く東洋的な、理想的国家をつくって、東洋婦人・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ しかし、「そうだ、もっと早くから、ルーブル紙幣の暗黒売買を禁止しとかなけゃならなかったのだ! これさえ抑えとけば、香水をつけたり、絹の靴下をはいたりして、封建時代の気分を呼び戻そうとするような、反動分子に何も手にはいれゃしなかったのだ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・主人はもっと早く引退ってもよかったと思っていたらしく、客もまたあるいはそうなのか、細君が去ってしまうとかえって二人は解放されたような様子になった。「君のところへ呼びに行きはしなかったかネ。もしそうだったら勘弁してくれたまえ。」「ム。・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・第三には「端役の人物」で、大善でもない、大悪でもない、いわゆる平凡の人物でありますが、これらの三種の人物中、第一類の善良なる人物は、疑いも無く作者たる馬琴および当時の実社会の善良なる人物の胸中の人物であります。もとより人の胸中の人物でありま・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・わたくしは、かような世の中が、一日も早くきたらんことをのぞむのである。が、すくなくとも、今日の社会、東洋第一の花の都には、地上にも空中にも、おそるべき病菌が充満している。汽車・電車は毎日のように衝突したり、人をひいたりしている。米と株券と商・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・私はそんなことを口惜しがる必要はない。早く出て来てくれてよかったといゝました。 娘が家に帰ってくると、自分たちのしている色んな仕事のことを話してきかせて、「お母さんはケイサツであんなに頭なんか下げなくったっていゝんだ。」といゝました。娘・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・義俊雄はぎりぎり決着ありたけの執心をかきむしられ何の小春が、必ずと畳みかけてぬしからそもじへ口移しの酒が媒妁それなりけりの寝乱れ髪を口さがないが習いの土地なれば小春はお染の母を学んで風呂のあがり場から早くも聞き伝えた緊急動議あなたはやと千古・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫