・・・ところが第三楽章の十二句になると、どうもだいぶ気が軽くなり行儀がくずれてはれた足を縁へ投げ出したり物ごとにだだくさになったり隣家とけんかをしたり雪舟の自慢をしたりあばたの小僧をいやがらせたり、どうもとかくスケルツォの気分が漂って来る場合が多・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・「今度来るとき、おばさんを連れておいんなはれ。おばさんが来られんようでしたら、秀夫さんをおよこしやす。どないにも私が面倒みてあげますよって」彼女はそんなことを言っていた。「彼らは彼らで、大きくなったら好きなところへ行くだろうよ」・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・彼の著書の中で、比較的初学者に理解し易いと言はれ、したがつて又ニイチェ哲学の入門書と言はれるアフォリズム「人間的な、あまりに人間的な」でさへも、相当に成育した一般の文化常識と、特に敏感な詩人的感覚とを所有しない読者にとつては、決して理解し易・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 私は左の股に手をやって、傷から来た淋巴腺の腫れをそうっと撫でた。まるで横痃ででもあるかのように、そいつは痛かった。 ――横痃かも知れねえ。弱り目に祟り目だ。悪い時ゃ何もかも悪いんだ。どうなったって構やしない。――「その代りなあ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 眼千両と言われた眼は眼蓋が腫れて赤くなり、紅粉はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。「どうだね、一杯」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・おのがすみかあまたたび所うつりかへけれど、いづこもいづこも家に井なきところのみ、妻して水汲みはこばする事もかきかぞふれば二十年あまりの年をぞへにきける、あはれ今はめもやうやう老にたれば、いつまでかかくてあらすべきとて、貧き中にもおも・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・さ染るや春の風春水や四条五条の橋の下梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上玉人の座右に開く椿かな梨の花月に書読む女あり閉帳の錦垂れたり春の夕折釘に烏帽子掛けたり春の宿 ある人に句を乞はれて返歌なき青女房よ春の暮 ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それでも、小さなこどもらは寒がって、赤くはれた小さな手を、自分の咽喉にあてながら、「冷たい、冷たい。」と云ってよく泣きました。 春になって、小屋が二つになりました。 そして蕎麦と稗とが播かれたようでした。そばには白い花が咲き、稗は黒・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・明日の朝ね、雨がはれたら結婚式の前に一寸散歩しようと云ってあいつを引っぱり出して、あそこの萱の刈跡をあるくんだよ。僕らも少しは痛いだろうがまあ我慢してさ。するとあいつのゴム靴がめちゃめちゃになるだろう。」「うん。それはいいね。しかし僕は・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・ そしてみんなは、雨のはれ間を待って、めいめいのうちへ帰ったのです。 どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
出典:青空文庫