・・・「あれですか、ばったの群れが、どこかへ移ってゆくのです。」と、花は答えました。 どこかに、もっといい土地があるのであろうと、女ちょうは考えていました。 その晩の月は、明るかったのです。そして、地虫は、さながら、春の夜を思わせるよ・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・ 硬ばった声だった。「まあ、知ったはりまんのん?」 同じ傘の中の女は土地の者だが、臨機応変の大阪弁も使う。すると、客は、「そや、昔の友達や」 ――と知られて女の手前はばかるようなそんな安サラリーマンではない。この声にはま・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ またあちらでは女の子達が米つきばったを捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と言いながら米をつかせている。ねぎさんというのはこの土地の言葉で神主のことを言うのである。峻は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・と角ばった顔の性質のよさそうな四十を越した男がすみから声をかけた。「ありがとう、どうせ長くはあるまい。」と今来た男は捨てばちに言って、投げるように腰掛けに身をおろして、両手で額を押え、苦しい咳をした。年ごろは三十前後である。「そう気・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野と、四角ばった煉瓦の兵営と、撃ち合いばかりだ。 誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければならないだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手をして、彼等を酷使・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・彼等は、あまりにふくらんだ、あまりに嵩ばったやつを好まなかった。そういう嵩ばったやつには、仕様もないものがつめこまれているのにきまっていた。 また、手拭いとフンドシと歯磨粉だった。彼等は、それを掴み出すと、空中に拡げて振った。彼等は、そ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・そして、自分では高く止っているような四角ばった声を出した。彼は婦人に向っても、それから、そう使ってはならない時にでも、常に「お前」とロシア人を呼びすてにした。彼は、耳ばかりで、曲りなりにロシア語を覚えたのであった。「戦争だよ、多分。」・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・お里は嵩ばった風呂敷包みを気にしながら、立っている。火鉢の傍に坐りこんでいる内儀の眼がじろりと光る。お里はぐら/\地が動きだしたような気がする。 番頭は算盤をはじき直している。彼は受領書に印を捺して持って来る。「何と何です?」 ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・岩に乗り上げた舟のように傾いた橇の底では兵士が、でこぼこのはげしい道に動揺するたび、傷を抑えて歯を喰いしばった。「おや、また入院があるぞ。ウェヘヘ。」 観音経を唱えていた神経衰弱の伍長が、ふと、湯呑をチンチン叩くのをやめた。 負・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・しかし、町へ行った娘は、二年と経たないうちに、今度は青黄色い、へすばった梨のようになって咳をしながら帰って来た。そして、半年もすると血を吐いて死んだ。 そのあとから、又、別の娘が咳をしながら帰って来た。そして、又、半年か、一年ぶら/\し・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫