・・・その泣くことの原因は普通自分の利害と直接に結びついているのであるから、最大緊張の弛緩から来る涙の中から、もうすぐに現在の悲境に処する対策の分別が頭をもたげて来るから、せっかく出かけた涙とそれに伴なう快感とはすぐに牽制されてしまわなければなら・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・老と病とは人生に倦みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗妙である。コノ稿ハ昭和七年三月三十日正宗白鳥君ノ論文ヲ読ミ燈下匆々筆ヲ走ラセタ。ワガ旧作執筆ノ年代ニハ記憶ノ誤ガアルカモ知レナイ。好事・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・けれどもそれをして比較的普遍ならしめんがため、――それを世間に通用する事実と変化せしめんがために、文芸の鑑賞に縁もゆかりもない政府の力を藉りるのは卑怯の振舞である。自己の所信を客観化して公衆にしか認めしむべき根拠を有せざる時においてすら、彼・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・封建の代のならい、主と呼び従と名乗る身の危きに赴かで、人に卑怯と嘲けらるるは彼の尤も好まぬところである。甲も着よう、鎧も繕おう、槍も磨こう、すわという時は真先に行こう……然しクララはどうなるだろう。負ければ打死をする。クララには逢えぬ。勝て・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・芭蕉は連句において宇宙を網羅し古今を翻弄せんとしたるにも似ず、俳句にはきわめて卑怯なりしなり。 蕪村の理想を尚ぶはその句を見て知るべしといえども、彼がかつて召波に教えたりという彼の自記はよく蕪村を写し出だせるを見る。曰く其角を尋・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・しかし今は平和の時でないのだから余り卑怯な事はいうまい位の覚悟は初めからして居る。そう思うて自分はあきらめた。けれどもつくづくと考えて見るとまた思い乱れてくる。平生の志の百分の一も仕遂げる事が出来ずに空しく壇の浦のほとりに水葬せられて平家蟹・・・ 正岡子規 「病」
・・・ぼくは人を軽べつするかそうでなければ妬むことしかできないやつらはいちばん卑怯なものだと思う。ぼくのように働いている仲間よ、仲間よ、ぼくたちはこんな卑怯さを世界から無くしてしまおうでないか。一九二五、四月一日 火曜日 晴・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって俄に急いだりすることは大へん卑怯なことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことになってるだろう。だから僕たちも急ぎた・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・革命を裏切らず、卑怯者にならずに自分を押しすすめてゆく途中で、どうせすてた体だ。もはや彼女にとって革命以外に大切にするものは何もないのだ。貞操ばかりをこわれ物のように気にかけていたら、それでどうなるというのだ」と、可憐にも当時の不十分に心の・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・そのために能力の弱い婦人が、社会的に悲境に陥りがちなことを諭吉は憐んで、女子に対する経済的の保護ということを言っているのである。福沢諭吉が女子の経済的自立をとりあげず、戸主との分配権をとりあげたのは、全く、資本主義国日本としての、ブルジョア・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫