・・・一等室の鶯茶がかった腰掛と、同じ色の窓帷と、そうしてその間に居睡りをしている、山のような白頭の肥大漢と、――ああその堂々たる相貌に、南洲先生の風骨を認めたのは果して自分の見ちがいであったろうか。あすこの電燈は、気のせいか、ここよりも明くない・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
「――鱧あみだ仏、はも仏と唱うれば、鮒らく世界に生れ、鯒へ鯒へと請ぜられ……仏と雑魚して居べし。されば……干鯛貝らいし、真経には、蛸とくあのく鱈――」 ……時節柄を弁えるがいい。蕎麦は二銭さがっても、このせち辛さは、明日・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・きびらの洗いざらし、漆紋の兀げたのを被たが、肥って大いから、手足も腹もぬっと露出て、ちゃんちゃんを被ったように見える、逞ましい肥大漢の柄に似合わず、おだやかな、柔和な声して、「何か、おとしものでもなされたか、拾ってあげましょうかな。」・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・殊更、熊野の奥の山家に住んで居るんだから、干鯛が木になるものだか、からかさは何になるものだかも知らない筈だのに小判と云うものを知って居るのも不思議である。彼の坊さんは草の枯れた広野を分けて衣の裾を高くはしょり霜月の十八日の夜の道を宵なので月・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・また、よく肥大した種のいゝ豚を二十頭ばかり持っていた。豚を放てば自分の畠を荒される患いがあった。いゝ豚がよその悪い種と換るのも惜しい。それに彼は、いくらか小金を溜めて、一割五分の利子で村の誰れ彼れに貸付けたりしていた。ついすると、小作料を差・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・山高帽を少し阿弥陀に冠った中年の肥大った男などが大きな葉巻をくわえて車掌台に凭れている姿は、その頃のベルリン風俗画の一景であった。どこかのんびりしたものであったが、日本の電車ではこれが許されない。いつか須田町で乗換えたときに気まぐれに葉巻を・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・いくら逃げても追い駆けて来る体内の敵をまくつもりで最後の奥の手を出してま近な二つの氷盤の間隙にもぐり込もうとするが、割れ目は彼女の肥大な体躯を容れるにはあまりに狭い。この最後の努力でわずかに残った気力が尽き果てたか、見る見るからだの力が抜け・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・それが、はち切れそうに肥大した子房の尻に敷かれて哀れをとどめているのである。 種の保存の任務を果たす前は雄が中央にのさばって雌を片わきに押しよせている。それが、役目がすむと直ちに枯死してしまった、あとは、次の世代を胎んだ雌のひとり天下に・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ワールブルヒは腎臓でもわるいかと思われるように顔色が悪く肥大していて一向に元気がなかったが、ゴールトシュタインは高年にかかわらず顔色も若々しく明るい上品な感じのする人であった。プランクはこの人に対していつもわざとらしからぬ敬意を表しているよ・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・あの肥大な虫の汁気という汁気はことごとく吸い尽くされなめ尽くされて、ただ一つまみの灰殻のようなものしか残っていなかった。ただあの堅い褐色の口ばしだけはそのままの形をとどめていた。それはなんだか兜の鉢のような格好にも見られた。灰色の壙穴の底に・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
出典:青空文庫